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明治の治水

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水を制御し、水を活かす。治水・利水とは人間が生活を営み続ける限り、永遠の課題といってよいかもしれない。特に、埼玉県東部地域では広大な中川低地を擁し、古来より大小の河川が乱流し、洪水の耐えない地域であった。近現代の歴史もまた水とのたたかいの歴史そのものであるといっても過言ではないのである。
 江戸時代、治水は幕府の直轄工事としてその対策にあたり、利根川を始めとする河川の瀬替えや改修などを行い、さらに水害に対する度重なる復旧工事を施工するなど力を注いできた。明治に入っても政府は治水対策に西洋の技術を導入するなどして、その対策にあたった。
 明治五年二月、オランダから技師二人を招き、その後も多くの技師団を招きその指導を仰いだ。この治水対策は木杭などで河床を固定し、水の勢いを減ずる工法や、水源地の育林、治水、砂防などを重視したいわゆる総合治水の考え方を指導したものでもあった。また、利根川全川の流域の測量や量水標の設置などを行うなど、科学的な治水技術を伝えた。粗朶(そだ)や木杭(きぐい)で水勢を減ずる工事は、利根川を始め江戸川、権現堂川等で施工されていった。明治五~七年にかけて県内では、利根川、権現堂川等の堤防修繕、水路浚渫(しゅんせつ)、樋類修繕、橋梁修繕(きょうりょうしゅうぜん)が各地で行われている。この他、各河川の開削工事も実施され、町域では百間東村ほか一三か村の姫宮落川の開削が行われた。
 こうしたオランダ技師による治水、利水の技術は、港湾と連動した運河・可航河川・疏水などの整備による内陸舟運網の形成にその目的があった。これを「低水工事」と呼び、河川の屈曲部を直線化し、川底の障害物を取り除いて、船が航行可能になるように河川を改修する点に工法の特徴があった。交通運輸の近代化を図る上で鉄道網の整備と並行して、国の重要政策の一つとして行われたのである。明治三十二年まで行われたが、その間、明治十八、二十三、二十九年には大洪水があり、ことに明治二十三年の洪水では町域でも浸水一八二戸の大きな被害をもたらした。こうしたことから砂防、流量の調整など洪水防止に主眼を置く「高水工事」へとその工法も切り替えられた。さらに、鉄道の発達は舟運を衰退させ、その意義を失わせしめたのであった。こうして、明治二十九年四月河川法が制定された。
 その後、明治三十三年利根川の改修工事が着手され、明治四十三年の大水害を経て、見直しされ実に昭和四年の竣工まで続けられたのであった。また、江戸川の改修、大落古利根川の浚渫工事も行われた。

4-39 大落古利根川治水碑

 大落古利根川の浚渫については、明治三十五年十二月北葛飾、北埼玉、南埼玉の全町村長を中心として陳情書が県会に対して提出された。明治三十六年度に測量に着手し、同三十七~三十九年度までの継続事業とされた。しかし、日露戦争の勃発により計画は中断されたが、明治三十九~四十二年度までの事業として県議会で可決され、さらに四十三年まで延長された。しかし、明治四十三年の大洪水のためさらに四十四年まで工期が延長された。