明治四十三年(一九一〇)八月一日から十日、十三日から十六日にかけて、群馬県草津地方および埼玉県秩父地方に降雨があり、雨量は二〇〇ミリをこえた。また、平地でも一〇〇ミリ前後の大雨となった。昭和二十二年(一九四七)の大水害と並んで「明治四十三年の水」として地域の人々に語り継がれてきた明治四十三年の大水害である。
このため埼玉県内の河川は増水・氾濫、幾つもの堤防が決潰して人々の生活に大きな影響を与えた。八月十日には利根川の堤防が決潰した。『明治四十三年埼玉県水害誌 埼玉県編』によると、八月十日午後十時三十分栗橋町水量標が二〇尺九寸(約六・三メートル)、午後十一時権現堂川水量標が二二尺二寸(約六・七メートル)になり、「堤防の決潰(けっかい)数箇所を生じ殊に論所たる中條村(行田市)地内福川堤を決潰」という状況になった。また、荒川方面では、古谷村(川越市)水量標が十一日午前一時に二八尺二寸(約八・五メートル)に達して明治四十年の最高水位を一尺三寸(約四〇センチ)上回った。「堤防は殆ど全部溢水(いっすい)し、終に堤防の決潰数十箇所に」及んだという。このため、濁流は北埼玉郡、南埼玉郡、北葛飾郡から東京方面にまで流れた。
『県史通史編五』によると、県内の主な被害は次のとおりである。堤防決潰三二九か所、護岸欠損一〇〇三か所、同流失崩壊二九四か所、同欠損一八九か所、河岸流失崩壊一〇〇か所、水制破損三二か所、国道毀損(きそん)八か所、県道決潰埋没一八六か所、同毀損一一四か所、里道決潰埋没八一八か所、毀損三〇七七か所、国道墜落流失二か所、同毀損五か所、県道橋墜落流失一三五か所、毀損六九か所、里道橋墜落流失七五四か所、毀損一九一八か所、溜池と用悪水損害一七五五か所、圧死八五人、溺死(できし)二三九人、負傷七七人、家屋全壊半壊二二一四棟、家屋破損二万四八四九棟、家屋流失一六三一棟、床上下浸水八万四五三八棟などであり、水害によって全財産を流失した戸数・人員は七九七戸三四三一人に及んだ。また、家屋財産の損害額は約三〇〇万五五五八円、農産物損害は二四四〇万一七二九円であった。
『関東新報』明治四十三年九月十一日号によると、須賀村長岡安喜兵治は、早くも水害発生から一月足らずの九月二、三両日に久喜町長らと特に被害の甚だしかった土地を視察している。