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『百間村水害誌』

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大正二年(一九一三)、水害の傷も次第に癒えてきた百間村は「本村当時の状況を叙し以て後日の参考に資」するべく、役場や学校に保存されていた水害関係資料を基にして出水・被害状況、救出活動、水害後の状況について『百間村水害誌』を編纂した。災害当時の村民の動向を詳細に描いた貴重な資料である。この記述を基に、百間村における明治四十三年大水害の様子を追ってみよう。

4-40 百間村水害誌

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 先に記したように、八月七日から降り続いた豪雨は十一日になってようやくやんだが、この日既に村内の河川は刻一刻と増水し「洪水の状態を現出」していた。赤松浅間前から杉戸停車場に通じる砂利通と東地内の半縄通は脛まで水が来ていたし、「古利根川隼人堀及その他の用悪水は時既に氾濫漲溢して平島前笠原耕地、中寺谷垂(やだれ)前耕地は宛然たる大潮海と変」わっていた。人々は被害を少しでも抑えるため「東奔西走(とうほんせいそう)する様宛然戦場(さまえんぜんせんじょう)に異なら」ないかのように、鋤(すき)などを手に土嚢(どのう)を積むなどの作業に従事した。しかし午前十一時、篠津村(白岡町)の役場より事態急変と応援人員の派遣依頼の一報が届く。これをうけて村は六人を派遣したようである。またその直後に中條堤防決潰(けっかい)の報が入り、村内は騒然とした状態であった。中條堤防は村の西北に位置し、これが決潰したならば、ほかに何ら村を守る術がなかったからである。かくして人々は家財道具の流出を防ぐ準備に精一杯であった。
 十二日朝、濁流は村の大部分を呑みつくし、人々の狼狽ぶりは尋常ならざるものがあり、村内に様々な危難が襲った。道仏地内停車場新道に住む人は、雨戸を開けようとしてかなわず、身一つで屋根裏にすがり救援を求めて大声で叫んだが一隻の救助船も見あたらない。どれほどの時間我慢したのかは資料からは定かではないが、声が枯れ、疲労も極みに達したとき、ようやく役場職員が乗り込む救助船に発見され、避難所に収容された。道仏地内ではほかにも屋根裏に避難して生命を守った例があったようである。姫宮では老婆が二人の幼児とともに戸棚に避難した。幸い通りかかった救助船に救われたという。また、東地内に住む人は家族とともに家財を小船に積んで逃げようとして激流に呑み込まれたが、幸い古利根川の対岸不二山(ふじやま)(春日部市)に流れ着き助かったという。
 住まいを離れざるを得なくなった多くの人々は、学校や役場に避難し、また村当局者は村民の保護に全力であたった。今も昔も同じであるが、当時水災救助の折に活躍したのは船であり、百間村ではこうした救助船の活躍により一人の溺死者も出すことがなかったのは、不幸中の幸いであったといえよう。
 さて、この水害によって田畑や穀物の多くは水に浸かり、食糧の確保が急がれた。人々は復旧作業や避難を不飲不食の中で余儀なくされており、子供は親に空腹を訴えて泣いている。村当局者はとりあえずの措置として民家に炊出本部を設置し、数人人員を派遣して握り飯を握らせ、それを直ちに船に積んで避難各所や村内の家庭を巡回せしめた。十二・十三両日にわたり、村民一人につきお椀大の握り飯二個ずつを配ったという。
 さらに村は「炊出(たきだし)救助」と「食品救助」を行った。炊出救助は、八月十五日から十九日にかけて、村役場庭内に炊出所を設けて握り飯を罹災(りさい)者に配るもので、一日二回行われた。飯には、塩・味噌・漬物の中から一品が添えられた。炊出救助のために調査委員一二人が置かれ、調査の結果救助すべきと村長が認めたものについて、村長検印の後、右の食糧が配られたという。期間中、多数の村民が「思い思いの容器を携えて庭前に群集し」一大市場のようだったと『水害誌』は記している。五日間で延べ七二九八人が炊出救助に集まった。食品救助とは、「罹災救助基金法施行細則」に基づき、白米と味噌を支給するもので、これも村民の損失をしのぐ一助となった。ほか、「種子救助」や天皇からの下賜(かし)金、皇族および篤志者からの寄贈金品などがあった。また、救助にあたって村長以下六人の村職員による東奔西走の活躍はもとより、教員や多くの村民が協力しあった。特に個人、団体合わせて二四か所が村民の避難所に自宅などを提供したことは特筆されなければならないだろう。
 さて、明治四十三年の大水害による百間村での被害の実態とはいかなるものであっただろうか。浸水の最も甚だしかった地区は、平島・蓮谷・停車場・道仏・中洲島・松ノ木島・柚ノ木・内野・姫宮・戸崎方面であった。金谷原・前原・中村・西・中寺の地域は幸い浸水をまぬがれたようである。村内の浸水面積は4-41のとおりである。百間村全面積の約九三パーセントが浸水したことになる。また、浸水戸数および農作物の被害状況は4-42、4-43のとおりである。不幸中の幸いというべきか、家屋の倒壊・流失はなく、家畜も僅かに鶏や鴨の流失の事例があったのみにとどまったようである。

4-41 百間村耕地別浸水状況


4-42 浸水戸数


4-43 農作物の被害状況

 最後に、水害後の村民の動向を若干追っておきたい。一つは学校教育である。実は、百間尋常小学校は明治四十三年三月に新校舎が落成したばかりであった。新しい施設でいよいよその実をあげんと意気上がる折に大水害が発生、百間小学校の今後が懸念されたのも無理はない。しかし、日露戦争を経験した村の有力者や村政担当者には「教育の事は戦時といえどもおろそかにすべからず(日露戦争中の詔)」という意識が強かったようである。増築工事に着手し、さらに十二月には農業補修学校の設置をもみるに至った。また、新学期の九月一日には児童の教科書の流失・汚損状況を調査し、使用にたえないものには給与、貸与を行った。筆・硯・鉛筆・半紙・雑記帳・綴方清書帳の給与もあり、一八九人の児童に与えられたという。
 一方、村有志者による水害地視察も行われた。須賀村長が九月に視察を行ったことは既に触れたが、百間村長は役場吏員、学校職員、そのほかの有志とともに十一月六日視察に赴いた。主な視察地は、大里郡大麻生駅(熊谷市)付近、妻沼付近の決潰場所および上中條(熊谷市)の堤防であった。その後、こうした教訓を生かして多くの村民の力によって新たに救助船四艘が造られたことが記されている。特筆されよう。