埼玉県内では「県の東半分なるいわゆる東武の平原地、殊に其の東南なる東京に接続した方面が被害激甚」で、特に古利根川、江戸川流域の被害が甚だしく、北足立、南埼玉、北葛飾の各郡は顕著であった。県全体では死者二二〇人、負傷者四六四人、建物全壊九二六七戸、半壊七五七八戸を数えた。南埼玉郡は死者七三人、負傷者一三七人、建物全壊二四一〇戸、半壊一三九四戸と、北足立郡に次ぐ犠牲であった。
町域でもかなりの被害が出た。住家では全壊一七戸、半壊一九戸、住宅以外の建物では全壊五八戸、半壊六六戸を数え、ことに須賀村での被害が大きく、役場も半壊し、神社二社も全壊した。また、町域での死傷者四人の痛ましい被害を出している。さらに道路の被害は、百間村で欠壊一か所、亀裂が須賀村一五か所、百間村二〇か所、合わせて延長四七〇間(八四六メートル)、陥没二か所であった。堤防は、欠壊五か所、亀裂三か所である。橋梁の被害は、墜落二か所、破損七か所に及んだ。また、その他のところでの亀裂が須賀村二五か所、百間村九二か所、合わせて一一七か所、一三四七間(二四二四・六メートル)、陥没した所は須賀村五か所、百間村一三か所、面積にして四四四八・四平方メートル、逆に隆起した所は百間村で二二か所、面積七七八・八平方メートルを数えた。このように、その被害はきわめて甚大であった。
4-44 幸手町の関東大震災の状況(杉戸町教育委員会所蔵)
4-45 杉戸小学校校庭の地裂(杉戸町教育委員会所蔵)
こうしたことを大災害を裏付けるように近年の民俗調査でも、震災当時に関する話が記録されている。
「小学生のとき関東大震災があった。そのときは、うちの竹ヤブに逃げ込んだ。地震のときは竹ヤブに逃げろ、竹は根が張っているので竹ヤブに逃げこめば安全だと教わっていたからである。揺れている時は、うちの竹ヤブの中でジーッと伏せていた。揺れがおさまったので起きあがって和戸の宿の方を見ると、真っ赤なケムリが立っていた。それは、屋根瓦が潰れて土ケムリが立っていたのである。」
「大正十二年の関東大震災のときには、まだ電気が入っておらずランプ生活だった。地震が起こったとき、おじいさんはランプが落ちないようにランプをつかんで、子供に「逃げてろ!」と叫んだ。私は、裏の竹ヤブに逃げ込んだ。」
「関東大震災の時、畑が割れて、パクパクして、そこから青い水がふきだしたと聞いた。」
このように、家の倒壊、液状化現象等生々しい被害の様子が語られている。さらに、余震も続き不安と恐怖の日々を過ごした。こうした災害に対し、青年団員、消防団員等が応急救護、倒壊家屋の後片付け等を行い、村でも東京方面からの避難民に対する救護措置や、災害に対する義損金の募集なども行った。
なお、この大震災の最中に東京で発生した「朝鮮人が井戸に毒を入れた」、「朝鮮人が所々で放火している」などという流言飛語が埼玉県内にまことしやかに尾ひれがつき広まった。全く事実無根の浮説であったが、このため各地で自警団が組織され、深谷、大宮等で在日朝鮮人虐殺事件が相次いで起こった。南埼玉郡では、九月四日には、南埼玉郡長・警察署長連名で「流言飛語に関する通牒」、同六日「県民の自重を求める告知」を出し、人心不安のためによる流言飛語であるので警戒にあたり遺漏ないよう、また敵視して危害を加えないよう周知した。南埼玉郡では、現在こうした悲惨な事件があったとの記録は確認されていないが、民族的偏見や人権意識の欠如がどのような事態を引き起こすのか、私達に教えているものと言えよう。
4-46 関東大震災町域被害状況