百間村は大きな河川から遠く常時船を要する機会が少なく、小学校にも船が一艘もない状況であった。このため、島村繁村長は救助船の新造を村会に諮(はか)ったが、多くの経費がかかるため僅かに一艘しか新造できない。しかし、こうした大洪水に際して僅かに一艘では村民の危機等に際して万全を期することは不可能である。このため村長は村民に訴えて義金を募り、これによって数艘の船を新造し、長く百間村民に対して後顧の憂いを断つと共に、自治の精神の増進を図るべく計画した。
明治四十三年十一月二十一日、各地区に「義勇救助船新造義金募集趣意書」を配布し義金の醵出を依頼し、この結果、一三八四人、金額にして一一七円三一銭に達したという。
こうして、多くの村民の力によって三艘の船が新造された。三艘はそれぞれ、尚文号、尚武号、報國号と名付けられた。また、村費で購入した船も赤心号と名付けられ小学校に保管し、有事の場合に使用する事とされた。さらに、義金醵出者(きょしゅつしゃ)は趣意書とともにこれを長さ二間半、幅四尺五寸の大額面に記載し、小学校内に掲げ、万世不朽に伝えることとした。
今から九二年前のことである。今なお百間小学校にはこれらの船が伝えられ、また額も郷土資料館に保管されている。
先人達の後世の人々に対する深い思いが感じられる。
4-47 救助船新造の額