明治政府は、当初欧米的農法を積極的に進めていたが成功しなかったため、老農、篤農(とくのう)を中心とする在来農法の改良へ方針を変えた。埼玉県では、明治十一年(一八七八)四月に各区二人の勧業篤志者を集め、浦和宿(さいたま市)の玉蔵院で第一回勧業演説会を開いている。」とある。その後、翌十二年九月に各郡役所に勧業委員を設け、勧業政策の推進を図ったが思うような成果が上がらず、翌十三年八月には拡充強化のため郡役所管内を四~一八農区に区分し、各農区に一、二人の農区委員を置き、農事改良に当たらせることとし、埼玉県内に勧業委員七人、農区委員一〇八人を任命している。同年八月の『勧業委員及農区委員職務総則』によると、その職務は、農工商の事業の拡張、生産物の品位の向上・増産、共進会、品評会などの開設および参加の勧奨、植物種子の交換・媒介、上記に関する景況報告などとされている。
明治二十年代ごろまでの農事改良は村の有力者である篤農を中心に行われた。当時の『県報』には「共進会と並んで、当時広く行われたものに農談会(集談会)がある。農談会は、定期あるいは不定期に有志が集まり、学識経験者や篤農家を招いて講演を開いたり、会員相互に経験や実験を報告したりして、互いに質疑応答を行うものである。
このころになると各村ごとに開かれていた農談会が、郡単位の農談会が組織され、篤農家を招いた講習会が開かれるようになった。南埼玉郡では、明治二十三年四月篤農家林遠里を招き、岩槻町で耕鋤法の講演会、実地講習会を開催している。その後は、林遠里の流れをくむ福岡県の篤農家吉住又三郎を招き、岩槻町、蒲生(がもう)村(越谷市)、江面(えづら)村(久喜市)などで米作改良の実地指導を行っている。埼玉県では、県の嘱託の巡回教師、農事試験所技師などを各地に派遣し、稲作改良、茶樹改良、藍業改良などの指導にあたっている。
農事改良講習は、主として米作の改良にあたっていたが、外国への重要輸出品である蚕糸や製茶の品質改良や増産に向け品評会や伝習会を開催しているが、明治十九年南埼玉郡では岩槻町に南埼玉蚕糸組合を設立し、蚕糸取締所の統轄を受けて、品質の検査を実施し等級を定めた。また組合の事業として桑樹の改良や培養の研究、蚕種の選定法、繭の貯蔵法、蚕病の予防法などの研鑽、合同出荷の扱いなどであった。同二十五年六月郡役所の主催による品評会が岩槻町で開催されている。また、茶業は、製茶技術の改良を図り、相場に見合った茶を産出させるため製茶伝習会が各地で開催されている。伝習期間は一五日間、伝習時間は毎日午前四時三十分から午後六時三十分までで、科目は揉捻法・蒸法・手術・行状などであった。
国は、国家富強の目的で明治十年に第一回内国勧業博覧会を上野公園で開催した。第二回は同十四年、第三回は同二十三年に開催し実業の奨励、生産の興隆を呼びかけている。