須賀村では、間宮太平次ほか二三人が南埼玉郡須賀村農会発起人となり、農会規約認可申請を明治二十九年十二月十八日に申請し、同年十二月二十二日に県知事から認可された。須賀村農会の活動状況の詳細は不明であるが、規約は附則を含め、一八条から成っている。規約から農会活動等をみると、設置目的は農事の改良および発達を図ることで、事務所は須賀村役場内に置かれた。会員は村内で農業に従事する者、村内に土地を所有する者、村内に居住する者で、会費は年一〇銭であった。会の収入は、会費のほかに篤志者からの寄付が予定されており、寄付者は会からの感謝状が贈呈されたようである。会の事業としては、県や郡などの上級農会からの報告を会員に周知すると同時に、上級農会への農事報告、農事品評会の開催、種苗の交換・売買の仲介、虫害の駆除、肥料の共同購入、試験場の設置および管理、農具および土地改良、耕地および栽培方法の改良、獣害および霜害の予防などであり、そのために技術者や実業家を招いて談話会を年一回以上開催することとしている。
4-51 百間村農会会報1号
(折原家文書)
百間村では、関根甲子三郎(かしさぶろう)ほか一二人が農会発起人となり、明治二十九年七月十四日に申請し、同月二十日に百間村農会規約が埼玉県知事から認可されている。百間村農会規約は、須賀村農会規約とほとんど同文である。
これら町村農会では独自に農事講習会や牛馬耕などの伝習会を開くこともあったが、町村農会の活動は全体的に不活発であった。しかし、明治四十三年に農会の中央機関である帝国農会が成立すると町村農会の活動は盛んになった。