明治三十三年農会法の成立により、農会は国の農業政策の中に組み入れられ、強制力を伴った農事改良が要求され、警察官の臨検のもとに取り締まりも行われた。これを人々は「サーベル農政」と称している。
同三十六年農商務省は、全国の農会に一四項目にわたる「農事改良増殖に関する」通牒(つうちょう)を発したが、このような富国強兵を眼目とした殖産興業の一環として勧農政策は、政府介入により警察権による強制力が強まった。明治三十七年二月農商務省は全国の地方長官を集め一四項目の農事改良を指令したが、埼玉県ではその一環として苗代の持主に姓名札を立てさせ、県吏や警察官立ち会いのもとに厳格な検査を実施した。明治四十四年度の埼玉郡の場合は、苗代の改作を命ぜられた者が五四二人、戒告を受けた者が一九一人、科料に処せられた者が二人であった。また、病虫害の駆除については、病虫害の稲を調査し、その駆除を命じたが、これに応じないときは農作物を強制的に焼却したり罰金や拘留に処すこともあった。南埼玉郡では、害虫駆除について通達を出しているが、この通達を実行するための指導や監視に当たらせるため大字ごとに病虫害駆除予防実行委員を任命した。この実行委員は、同四十二年に農事奨励委員と改められた。この年に苗代の改良については、共同苗代組合の結成が指示されている。