政府は、明治五年に分地制限令を撤廃し、土地の売買を自由にしたため土地の移動は活発になった。しかし、同十一年に期限が明確でなかった土地を担保とした質入期間を三か年と限定したが、同十七年に政府のデフレ政策により、生活に困った農民の多くは土地を売ったり、土地が質流れになる場合が多くなった。そのために土地を持たない小作者や零細農家が増加した。南埼玉郡内の小作地の割合は、明治十七年は四四パーセント、同二十三年には五〇パーセント、同三十四年には六〇パーセントに及び、地主への土地の集中が急速に進んでいる。この理由の一つは当時の国会、県会、郡会、村会の議員選挙が、国税を納める額による制限選挙であったためといわれている。明治三十年度の南埼玉郡多額納税者調べには、三一三人が対象で、最も対象者が多いのは八町から四〇町歩を所有する地主で一五四人を数える。明治二十九年の地租二五〇円以上を納める南埼玉郡の大地主は六二人であった。町域でも、明治二十八年の資料では四人を数える。