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農業の実態

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この頃の農村は、地方改良運動ならびに民力涵養(かんよう)運動を反映していた。明治三十年代以降大正期にかけては、農業の技術改善、品種改良から経営指導に至るまで重要な役割を担ったのが農会であり、農業生産活動を促進したのが産業組合であった。町域では、明治四十一年一月に有限須賀信販購入組合が創立され、大正四年(一九一五)七月有限南埼太田信販購入組合が結成された。明治四十五年には上部組織として4-54のような大日本産業組合埼玉支部会南埼玉郡部会が組織された。大正六年陸軍糧秣式本廠に南埼玉郡の米麦を安定供給するために南埼玉郡販売組合連合会が設立された。

4-54 南埼玉郡内産業組合一覧表

 大正二年南埼玉郡に農事督励(とくれい)委員制度が設けられ、郡内の各町村を巡視し農業技術の指導や病害虫の予防駆除を行ったが、警察官とともに巡視するものであり、県が奨励している短冊苗代を実施しない者は摘発し改作させたり、村内の風紀などについても指導した。裸で農作業をすることを禁じていたので、委員と警察官の姿を見るとあわてて野良着を着たといわれている。大正四年埼玉県は米穀検査規則を定め、県内八か所に検査所を置き、係官四一五人を配置した。南埼玉郡内には八か所の移出米検査員出張所と四二か所の生産米検査員派出所が町村ごとに設置された。この検査の実施に当たり地主が小作人に対して奨励米を支給することをやめる決議をしている。このため検査にかかる労力や経費負担が直接小作人に押し付けられる形となり、小作人の負担は大きくなり、小作料値下げ運動が発生してくるようになった。