地主と小作人との関係は、作物の豊凶や経済情勢により紛争を生じることもあった。県内における小作争議は、大正四年から始まった産米検査実施経費の小作人への転嫁による不満、同十年の米・麦の不作と麦検査実施に伴う小作人の負担増に対する不満などによって生ずることが多かった。
百間村では、小作人の組合について昭和五年(一九三〇)十二月二十七日の新聞に、「南埼玉郡百間村では最近小作人組合結成の機運濃厚となり寄々運動中であったが二十五日二十余人の組合員を獲得したので近く発会式を挙げ同時に秋作小作料軽減の要求を地主側にすることになった。」と記されている。
昭和五、六年ころからの恐慌(きょうこう)時代には、南埼玉郡でも「小作料減免」の農民運動が展開されたが、秩父の山間地域は影響が少なかった。
北葛飾郡、南埼玉郡を中心とする水田地帯は、農民の社会的意識の最も遅れた地域といわれているが、半封建的小作関係は戦前まで持続し、農民の地主に対する隷属的身分関係も断ち切れずにいた。土地所有の集中度が高いことで家守小作制度が残存し、農民は地主に隷属する状態が持続していた。家守小作について、戦前まで維持されていた。