埼玉県では、大正八年から大落(おおおとし)古利根川、元荒川、同九年から綾瀬川、同十年から芝川、青毛堀、備前堀、姫宮堀、隼人堀、福川、新河岸川、忍(おし)川、星川、野通川の一三河川の改修に着手した。大正十二年四月国によって「用水幹線改良事業補助要項」が制定されると、大場川、下星川、小山川が一三河川改修に組み入れられた。
葛西用水路の琵琶堰(びわせき)下流(青毛堀落分)から粕壁町(春日部市)新町橋下流までの間は大落古利根川と称され、この区間には青毛堀、備前前堀、備前堀、姫宮落堀、隼人堀、古隅田川など、羽生領、騎西領の悪水が落とされている。この六堀の悪水関係地域の人々は、明治三十一年(一八九八)六月落堀悪水路普通水利組合を設立した。組合の区域は、鷲宮村(鷲宮町)、久喜村、清久(きよく)村、太田村、江面(えづら)村(久喜市)、大桑(おおくわ)村、礼羽(らいは)村、三俣村、樋遣川(ひやりがわ)村(加須市)、元和村、豊野村(大利根町)、須賀村、百間村(宮代町)、鴻茎(こうぐき)村、騎西町、高柳村(騎西町)などで、反別は二万一一四町六反余歩の地域である。組合会の議員は、一四人で選挙区は一三選挙区に分かれ、任期は六年で、三年ごとに半数改選であった。
4-59 水利組合
隼人堀の関係者は、明治三十年(一八九七)に隼人堀悪水路組合土功規約を設けている。規約によると各村々から人足を出して必要に応じ藻刈や堀浚いを行っている。また、組合委員は、藻刈や川浚いの計画を立てて丁場割を行い、施工後の検査も実施している。
大落利根川の改修は、大正八年から昭和九年までの一六年の歳月が費やされ竣功した。改修水路の延長は、本線が六里三三町、青毛堀(あおげぼり)は二里二八町、備前前堀は一里二七町余、備前堀は三里三一町、姫宮落堀は二里二七町余、庄兵衛落堀と栢間(かやま)堀と隼人(はやと)堀が五里一二町余に及んだ。橋梁(きょうりょう)、樋管(ひかん)、堰枠(せきわく)の改造は二九四か所、用地買収面積は六〇町七反五畝歩余、使役人員は七二万六〇〇〇人、事業総額は一九九万九四七五円であった。高野村地内の屈曲部は、直線流路に改修され、廃川敷は大落堀悪水路普通水利組合に払い下げられたいとの出願が出されている。
備前堀は、備前堀悪水路普通水利組合が設立されている。組合の区域は北埼玉郡七か町村、南埼玉郡六か町村の一三か町村、反別は三四五二町歩、組合の目的は悪水排除のため水路の修繕、浚渫、藻刈をすることである。この流路には、大堰(備前堀本川)、万年堰、久米原堰、前堰(備前前堀)、寿明堰、増殿堰(大英寺堀)、水門堰(八か村落堀)、白山堰、東門前堰、古笊田堰(古笊田堀)の一〇か所に堰枠が設けられている。改修工事終了後は、備前堀と備前前堀の分離、須賀村が備前前堀に設けられている万年堰から灌漑に水を用いているので存置を希望しているが、上流の清久村では存置に反対しているので、県と折衝中であった。改修以前は備前堀と備前前堀の区別はなかった。
4-60 古利根川と和戸橋
(昭和初期)(知久氏所蔵)
大落古利根川の浚渫は、明治二十六年(一八九三)十一月の臨時県議会で「土木費及町村土木補助費支弁規定」において〝藻刈及用悪水疏通ノ為メ要スル浚渫ハ北限ニアラス〟として地方税の負担から除外されたため、関係市町村の費用負担は増大した。そのため関係町村から県議会への陳情が相次いだ。埼玉県は、大落古利根川の改修のための費用を、明治三十六年十一月の通常県議会に、翌三十七年度予算に測量費、同三十七年度から三十九年度の三か年の改修費を計上したが否決された。その後日露戦争の勃発により大落古利根川の改修も時局安定後へ先送りとなり、明治三十八年十一月の通常県議会で、改修費一五万四八一〇円、期間は三十九年度から四十二年度の四か年ということで可決された。埼玉県では、翌三十九年七月の臨時県議会で、浚渫に関連する土木費支弁規定を第四条(略)河川及悪水路ノ浚渫工事ニシテ公益上特ニ緊切ノ関係アリト認ムルトキハ其ノ区域ヲ以テ支弁(略)と改めた。大落古利根川浚渫の浚渫船の基地が宮代町に設けられていた。
4-61 隼人堀改修工事(大正時代)