明治初期の消防組織は、各宿村ごとに江戸時代のままの自警的な火消組が存続し、各町村の統一性はなかった。明治八年三月の太政官たちに「出火ノ節ハ巡査出火ノ合図ヲ為シ一般ニ知ラシム且燃失ニ罹ル家ハ其家ヲ助ケ消防ノ事モ勤ムヘシ消防人、己ニ集マルニ至レバ勉メテ乱雑及窃盗ヲ防ク事ニ注意スヘシ」「同断ノ節第一ニ其ノ人ヲ救出シ次ニ書類金貨等ヲ出スヘシ又官庁其他区長等ノ宅ハ文書第一ニ取出スヘシ」と規定され、出火場での警察官の執務心得が示されている。埼玉県では、同十九年二月消防組組織編成規則を定め、消防組は警察署または分署所轄内で一町村一組または数組を編成し、その名称はその町村名を冠称すること、組員は原則として一七歳以上四五歳以下で、消防組編成は、所轄署を経て県庁に届け出て認可を受けることなどを定めている。ただし、このときに町域の消防組が具体的にどのように編成されたかは不詳である。
その後、明治二十七年二月九日政府は、全国的に消防体制を画一化する目的をもって消防組規則を公布し、従来市町村または一部の有志者に委任したりしていたが、一切の私設消防団体を禁止し、知事の職権で設置することが明示され、消防組はこれにより公設となり、警察の直接支配下に入ることになった。
百間消防組は、杉戸警察署管内に属し、明治二十七年十一月十九日に設置され、組頭一人、部長九人、小頭二八人、消防手四〇六人の計四四四人で組織されている。
4-65 百間消防組(昭和6年)(島村氏所蔵)