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身分解放令

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明治政府は、近代国家を目指して殖産興業、富国強兵、文明開化のスローガンのもとに封建的制度を払拭するための政策を次々に打ち出した。この一連の近代化政策の中で明治四年八月二十八日太政官布告により身分解放令が発布された。この身分解放令は、穢多(えた)、非人(ひにん)といった身分上賤視され差別を受けてきた人々の呼び名を廃止して、今後は身分、職業は平民と同様であるべき事というものであった。これによって、被差別部落の人々に対する身分上の差別は、法的、制度的にはなくなった。しかし、身分職業が平等になったのだから課税の点も他と同様に公平平等にしなければならないとあり、むしろ〝平等〟の名のもとに従来の皮革細工、加工などの経済的特権を奪われ、さらに租税や兵役などの諸負担を課されることとなったのである。また、近世封建社会の特権階級であった旧武士の人々に対しては秩禄処分や金禄公債の支給など新しい社会に適応する経済的保障がなされたのに対して、被差別部落の人々には経済的に新しい時代に即応できるような施策は何もほどこされなかった。このように身分解放令は、被差別部落の人々には単に身分の称号廃止と職業の自由を宣言したのにとどまり、差別をなくすための行政的処置、経済的保障は何一つほどこされず、被差別部落の人々の真の解放を保障するものではなかった。
 その後、融和運動が実施されたが、差別の解消に向けた積極的な運動にまでは発展せず、精神的な融和運動にとどまった。こうした融和運動に対し、自らの体験と活動を通して被差別部落の人々自身による運動で解決しようと、大正十一年三月三日京都の岡崎公会堂で全国水平社が結成され、「人の世に熱あれ、人間に光あれ」で結ばれる水平社言言が採択された。同十一年四月十四日埼玉県水平社は、京都に次いで全国で二番目に結成された。