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日清戦争と宮代

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明治十六年(一八八三)の徴兵令改正により、身体障害者・重罪の受刑者以外は兵役免除はなくなり、同二十二年の改正で、徴兵区分は現役三年、予備役四年、後備役五年となり、予備役・後備役は平時には毎年六〇日以内の勤務演習のための召集か年一度の簡閲点呼、補充兵は現役の補欠に充てられ、平時は五〇日以内の教育召集を受けた。また、軍編成の改正も行われ、同二十一年五月鎮台条例が廃止されて師団司令部条例、旅団司令部条例などが制定され、近衛師団以下七師団、歩兵一四旅団、砲兵七連隊、騎兵二大隊、工兵六大隊半、輜重兵六大隊となった。埼玉県の徴兵は、第一師団管下となり、師団の下に第一、第二旅団があり、徴募の大隊区は第一旅団管下に麻布(東京都)・高崎(群馬県)の両大隊区、第二旅団管下に本郷(東京都)大隊区があり、大隊区の下に監視区が設けられた。このとき南・北埼玉郡、北・中葛飾郡は、第一師団第二旅団本郷大隊区岩槻監視区に属した。その後同二十九年三月の陸軍管区の改正があり、監視区は廃止され、南埼玉郡は近衛師団本郷連隊区の所属となり、さらに同三十六年二月には第一師団第二旅団本郷連隊区の所管となっている。なお、海軍の徴募区は横須賀鎮守府に属していた。
 これらの徴兵事務は、軍から県へ、県から郡・市町村へと内訓が発せられ、検査日割が通達された。これにより、戸長は検丁をまとめ徴兵検査所に出頭しなければならず、町村にかかる徴兵事務は大きな負担であった。また、徴兵に対する負担は、労働力の中心である壮丁が三か年の現役に服するだけでなく、在営中は父兄からの送金を必要とするなどの負担もあった。
 明治二十七、八年の日清戦争中の動員令は三五回に及び埼玉県では陸軍三九六八人(うち南埼玉郡四八二人)、海軍四人(南埼玉郡なし)の計三九七二人が召集され、戦死者四六人、戦病死者二一三人の計二五九人に及び、うち南埼玉郡は二五人であった。