明治三十七年二月に勃発した日露戦争は、日清戦争とは比べものにならない、明治維新以来最大の戦争であった。動員令は五四回、臨時召集・補充召集などは一〇八回に及び県下徴兵人員および兵員数は三万二一六三人(うち南埼玉郡三九三〇人)、ほかに馬一万八一六頭(うち南埼玉郡六八八頭)、車両七五二〇両(うち南埼玉郡一九五五両)が徴発された。また国債も募集され埼玉県下全体で二三三八万九〇〇〇円余りの応募額に達し、募入額は五九三万二〇〇〇円余であった。町域からの応召者は、近衛師団と第一師団に配属されたが、近衛師団は第二師団、第一二師団と共に第一軍に、第一師団は第七師団、第一一師団と共に乃木希典を司令官とする第三軍に編成され従軍している。百間中村の木村市之丞は、明治三十四年十二月一日徴兵として第一師団騎兵第一六連隊に入営し、同三十七年五月十四日の動員令により宇品港から出発し、戦役に従軍した。松ノ木島の新井喜右衛門は、同三十八年四月一日徴兵として野砲兵第一二連隊補充大隊に入隊し、同年八月十日宇品港を出帆して明治三十七、八年の戦役に従軍し、同年十一月十六日宇品港に帰着し復員解散となった。百間の関根清吉は、同三十三年十二月一日補充兵役に服役し、翌三十四年三月一日教育召集として歩兵第三連隊へ入営し、同三十七年五月三十日召集解除となったが、同年八月三十一日補充召集として歩兵第三連隊補充大隊に入隊し、同年九月二十二日宇品港を出帆し、戦役に従軍した。西粂原からは一三人が従軍し、二人が戦病死した。
4-66 日露戦争宣戦詔勅(折原家文書)
この他にも、町域から多くの人達がこの戦争に召集され出兵した。なお、この戦争によって町域では戦死者八人、公病死者九人を出した(埼玉県市町村誌第十八巻)。
兵役についた者の家庭では働き手が奪われたため生活に窮することが多く、出征家族の救護は戦争遂行のうえからも重要な問題であった。埼玉県では、明治三十七年七月応召下士兵卒家族救助内規を定め、各町村に救護団体〝出征軍人家族保護会〟が設けられている。