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金融恐慌

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大正初期は、明治四十年代から続く不況で経済界は沈滞していたが、大正三年(一九一四)に勃発した第一次世界大戦の影響を受けて、海運をはじめ、軍需品の輸出が盛んになり、さらにヨーロッパに代わって東南アジア向け雑貨類の輸出が急速に伸びた。そのため、我が国の経済界は好景気を迎えたが、異常なまでの企業熱をあおり、投機が盛んとなり、多くの成金を生んだが、反面インフレとなったため、庶民の生活は圧迫され、同七年八月富山県の一漁民から起こった米騒動はまたたく間に全国に広まった。本県でも同年一月の米小売価格が一石当たり二四円だったものが、七月には四五円、八月には五〇円になるという有様であった。第一次大戦後の好景気は同九年ごろから不景気に転じ、株価や諸物価が暴落しはじめた。県内でも倒産業者が続出し、担保価格の不足による損失によって休業する銀行も現れるほどであった。

4-68 杉戸銀行(杉戸町教育委員会提供)

 昭和二年(一九二七)三月衆議院で片岡大蔵大臣が東京渡辺銀行の経営が破綻状況にあるとの失言をしたため、全国の銀行預金者が不安を感じ、一斉に自分の預金を引き出そうとした。弱小銀行はこれに対応しきれず次々と休業に追い込まれた。埼玉県内でも三月十九日中井銀行の各支店が休業に入った。三月二十一日には力尽きた久喜銀行、宝珠花銀行、深谷商業などが休業に入った。武州銀行は、政府が支払猶予金(モラトリアム)を発し、全国の銀行が一斉に休業した四月二十二、三日を除いては営業を続行、第一銀行の強力な支援によって危機を乗り切り、ことなきを得た。しかし、金融恐慌に発展し、不況の嵐が吹き荒れ、慢性の農村不況となった。