明治三十年代は、日清戦争を契機とする日本での産業の確立期であり、機械工業が飛躍的に発展した。大工場の新設により賃金労働者は激増した。しかし、その生活は、軍備増強と増税、物価高騰によって困窮していた。このような中で明治時代を代表する労働組合である鉄工組合、日鉄矯正会、活版工組合などが組織された。埼玉県内でも明治三十年に日本鉄道株式会社大宮工場の労働者によって労働組合期成会鉄工組合第二支部が結成されている。
明治三十一年(一八九八)二月、日本鉄道では、二月二十四日に福島を中心に約四〇〇人の機関方による一斉ストライキが行われた。これが、我が国始めてのストライキであった。
同三十三年明治政府は、治安警察法を公布し、政治結社、労働運動、農民運動の取締まりなどを実施した。日露戦争後の人々の生活は、戦争中の増税、物価騰貴がたたり、決して楽なものではなかった。労働組合は、政府の激しい弾圧によって壊滅的打撃をうけていたが、生活苦に耐えきれなくなった人々は次々に立ち上がり、争議件数は増加し、明治四十年には一五〇件を超え、中でも足尾銅山、別子銅山は軍隊が出動し弾圧するという激しいものであった。
私鉄関係の争議は、同三十四年名古屋電鉄のストライキ、同四十一年大師電鉄のストライキ、翌四十二年大師電鉄の時限スト、名古屋電鉄のストライキなどがある。県内では、明治三十九年の日本煉瓦争議、旧日本鉄道機械工の闘争、明治四十一年の熊谷郵便局争議などがあげられ、地域的な広がりを持つようになった。
大正六~八年の三年間の全国の争議件数はさらに増加し、一三〇〇件を超えた。この時期は、交通労働者が主に昇給を柱とした待遇改善の争議を展開している。
昭和四年(一九二九)十月二十四日ニューヨークの株式市場は大暴落して恐慌が始まった。大正末期の不況から昭和二年の金融恐慌そして世界恐慌へと、深刻な不況となった。当時の浜口内閣は、緊縮政策と産業合理化政策をもって不況に対処したが、合理化の重点が操業短縮と人件費削減におかれていたために労働者は解雇、賃下げ、労働強化に見舞われ、生活は窮乏化を一層深めていった。輸出は減り、物価は下落し、中でも農産物の価格の下落は著しく、農村では欠食児童が増え身売りが公然化するなど極度に貧困化していった。都市部では、労働争議が激発し、同三年から同六年までのストライキの件数は二四五三件に達している。