昭和の初め頃の東武鉄道の労働条件は、運転手は庫で教習をうけた後、指導運転手について約一か月の見習い、それが終わると短区間の折り返しを受け持たされ単独乗務となる。しかし、それも欠員があった場合で、なければいつまでも庫の仕事を続けることになっていたという。電車乗務員の拘束時間は約一〇時間、一日の乗務は浅草―日光間一往復半が普通であり、中には浅草―日光間二往復して浅草泊まり、翌朝一番で日光まで一往復するというダイヤもあった。また、再三、再六と呼ばれる三時間、六時間の再乗があり、朝五時に家を出て夜十時過ぎの帰宅も珍しいことではなかったという。長時間乗務は、車掌も同じだった。昭和六年ごろの運転手の日給が一円二〇銭~一円三〇銭、同心得、同代理で一円五銭~一円二〇銭であった。駅手は八〇銭~一円程度だった。試雇は日給五〇銭~七〇銭であった。勤続三〇年を超えたある駅長の場合月給五三円であった。このころ東武北千住から久喜までの運賃は七一銭である。
その後、東武鉄道では昭和七年、昭和四年から続いた昇給ストップに端を発し四月労働争議が起こった。運転手、雇員は車掌に対して理解と同調を求め、四月二十二日運転手一一〇人、検車手ら雇員四六人、車掌一五〇人の三〇六人が杉戸に集合しストライキに突入した。杉戸駅(現東武動物公園駅)前の浜島旅館一階には争議団本部、運転手たちが陣取った。その後、会社側と交渉に入り、結果、覚書を作成し調印した。さらに、昭和十二年にも待遇改善を求める労働争議があった。
4-69 浜島旅館に陣取った争議団
(『埼玉百年史』より転載)
昭和十三年四月国家総動員法が公布され、戦争遂行のための労務、物資、生産、物価などすべてが国家統制の下におかれ、労働争議の禁止、言論統制、国民徴用なども含まれていた。同十三年秋産業報国運動が各企業で実施されるようになると労働組合はこれに吸収されるか解散へと追い込まれた。こうしたなか、昭和十四年三月にも東武鉄道労働争議があった。