明治十一年(一八七八)に板垣退助が愛国社を結成すると本川俣村の堀越寛介は、羽生町にて通見社を組織した。通見社は、明治十三年国会期成同盟会と改称した。同十四年十月板垣退助が自由党を結成すると県内からも参加する人が現れた。同十七年十月自由党は解党したが地方組織である関東自由党に人々は参加した。同十九年大宮の矢部忠右衛門らが埼玉自由倶楽部を結成した。同二十三年九月埼玉自由倶楽部を母胎として立憲自由党が再興されたが、地方組織の関東自由党に属していた。同二十四年三月立憲自由党は自由党と改称し、同二十六年五月自由党は府県と単位とする支部制度を採用すると同年七月埼玉支部が結成されている。このときに南埼玉郡からの発起人は、新井啓一郎、大島寛爾、飯野喜四郎、井出庸造、尾崎麟之進、島根荘三、深野彦三郎、練木市左衛門、川上次郎右衛門、瀬田繁太郎、加村竹次郎、鈴木佐太郎、杉田市蔵、相沢僖三郎、中村悦蔵、渡辺嘉藤次、塚本金左衛門、高橋喜右衛門、斉藤喜久次郎、新井忠兵衛、斉藤徳三郎、関根宇一郎、中川元吉、川上参三郎らであった。同三十一年六月自由党と進歩党が合同し憲政党となったため県内でも両党支部が合同し憲政党埼玉県支部となった。同年十一月旧進歩党々員は憲政党から分かれて憲政本党を結成すると同年十二月に埼玉県支部も結成された。同三十三年九月憲政党は解散し、立憲政友会として新たに結成されると埼玉県支部も同時に発足した。同三十五年立憲政友会埼玉県支部の一部の人々が埼玉革新倶楽部を結成した。
明治十二年の通常県会において秩父資源開発策として正丸峠、山伏峠、粥仁田峠の三線同時派と正丸峠の一線支持とに分かれ、横川宗作は副議長を辞任、日下部泰助は参事会員を辞し脱党届を出し、岡安五郎は除名された。翌四十三年政友会の田島春之助、神田寿三郎、加藤寅三郎、岡安五郎、日下部泰助の五名は、憲政本党の堀越寛助、田中左司馬等らと協議し、同年一月二十五日埼玉倶楽部の結成声明を発表した。
4-70 日下部泰助(日下部氏所蔵)
この結果従来埼玉県議会で絶対多数を占めていた政友会は少数党となり、以後同四十四年の定期改選に至るまで憲政本党と埼玉倶楽部が主導権を握ることとなった。埼玉県の県議会は、同四十四年から昭和十一年(一九三六)まで立憲政友会が主導権を持ち絶対優勢であった。
大正十三年(一九二四)一月政友本党が組織されると、北足立郡の人々によって、同年五月埼玉県支部が結成された。しかし、昭和二年(一九二七)政友本党が解党し、立憲政友会と立憲民政党に分かれていった。
昭和十五年八月大政翼賛運動により政友会は解散し、それにともない埼玉県支部も解散となった。