明治十五年(一八八二)四月大隈重信が立憲改進党を結成すると、鴻巣市の加藤政之助は、大隈重信を浦和町に招き、埼玉県支部を結成した。同二十九年三月立憲改進党は解散となり、新たに進歩党を結成し、同三十一年六月自由党と合併し憲政党となったが、同年十一月旧進歩党員が分かれたので憲政本党と改称し、同三十二年二月に埼玉県支部を組織した。同四十三年三月憲政本党は立憲国民党と改称、大正二年十二月立憲国民党から分かれた加藤高明らは新しく立憲同志会を結成した。同五年十月立憲同志会が憲政会と改称した。また、昭和二年(一九二七)六月憲政会は立憲民政党となったが、同七年には一部の人々が国民同盟を結成している。
明治十五年から同二十七年まで埼玉県議会においては全盛期であった。また、昭和十一年以降は、立憲民政党と国民同盟、中立派と提携して主導的立場を確立した。大政翼賛運動により国民同盟は、昭和十五年八月に埼玉県支部を解散している。同年九月立憲民政党埼玉県支部が解散している。