明治十年一月三十日西南戦争が勃発すると、明治政府は蜂起軍の鎮圧に努めたが、常備軍を総動員しても兵力不足のため、各地の士族を徴募し、九州地方へ派遣している。西南戦争に呼応して各地で反政府の動きが活発化したので、ときの政府は、御用新聞である東京日日新聞を活用して活発な世論操作を行い民心の動揺を防止した。
宮代町から西南戦争にいった人に、須賀の遠藤繁吉、姫宮の野口吉右衛門の名が見られる。
遠藤繁吉は、嘉永六年(一八五三)二月十八日に生まれ、明治七年の徴兵検査により合格し、宇都宮分営所に入隊した。西南戦争が勃発すると同十年三月に東京を出発し、神戸に至り第二旅団、第五旅団が編成され、同月十四日博多に上陸し、翌日福岡城に入り、四月十七日熊本県の新鍋頓、同二十日保田窪頓の戦いに参加した。
野口吉右衛門は、嘉永五年三月四日に生まれ、明治八年佐倉歩兵第二連隊に入営し、ラッパ兵として西南戦争に参加している。手控によると、明治十年二月二十六日東京新橋から陸蒸気で横浜に至り、同日横浜から名古屋丸で出発し、同月二十八日神戸に至り、下関を経て三月三日博多に入った。同日博多湊から福岡宿に入り一泊し、翌四日福岡を発し、二日市宿、松崎宿、久留米宿、金松宿、南関、高瀬宿、原倉村、竹崎村、大崎村、串良宿、鹿児島などを転戦し、翌十一年三月凱旋している。
4-72 ラッパ兵が使用していた楽譜
(野口氏所蔵)