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東武鉄道の開通

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明治二十八年(一八九五)、東京と、養蚕(ようさん)地帯である上毛(じょうもう)地方(当時、群馬県は長野県に次いで全国第二位の生糸の生産量があった)を結ぶため、東京本所(ほんじょ)(台東区)―千住(足立区)―粕壁―羽生(はにゅう)―館林―足利(あしかが)の総延長五二マイル(八三・七キロ)の東武鉄道の敷設が計画された。この時期は「第二次鉄道熱」といわれ、全国的にも私鉄設立の請願が相次いでいた。
 同年四月、東武鉄道株式会社設立が出願され、同年六月に仮免許が交付された。同年十月に創業集会が開かれ、翌二十九年十二月に東武鉄道株式会社の設立と鉄道敷設の申請がなされ、翌三十年九月に本免許状が交付された。
 「東武鉄道会社発起人(ほっきにん)意見書」(『東武鉄道六十五年史』)によれば、東京から足利に至る地域は物産の豊富な地域であるが、既に開通している日本鉄道第一区線(JR高崎線)および第二区線(JR東北本線)、両毛(りょうもう)鉄道会社線(JR両毛線)の恩恵を受けていない地域に恩恵を及ぼすことを目的としているという。そして、その効果は、栃木・群馬・埼玉県の貨物を輸送するだけではなく、総武鉄道(JR総武本線)・成田鉄道(JR成田線)・房総(ぼうそう)鉄道(JR外房線)を通過する貨客が東京湾や上武地方へ行くために便利になるということである。収支については、「起業目論見書(もくろみしょ)」(『東武鉄道六十五年史』)によると、総収入二二万七七六〇円で、旅客収入が一三万六六五六円、貨物収入が九万一一〇四円で、旅客六〇パーセント、貨物四〇パーセントと見込んでいた。純利益一三万二八六〇円を見込んでおり、収益の上がる路線であると考えていたようである。
 北千住―久喜間を第一期工事として、明治三十一年に着工し、翌三十二年八月十九日に北千住―久喜間二五マイル(四〇・一キロ)が開業し、イギリス製の蒸気機関車が運行された。開業当時は、北千住・西新井・草加・越ケ谷・粕壁・杉戸・久喜の七駅が設置され、客車と貨車の混合列車(客車三輌・貨車一輌)が一日七往復運行された。北千住発下り列車・久喜発上り列車とも、午前六時十分、八時十分、十時十分、午後一時、三時、五時、七時発であった。同年十二月には、新田・蒲生・武里・和戸(しんでん・がもう・たけさと・わど)の四駅が、翌三十三年三月には竹ノ塚駅が設置された。
 明治三十五年に改正された運賃表(『東武鉄道六十五年史』)によれば、明治三十五年当時、北千住―杉戸間の所要時間は六〇~七〇分、運賃は二五銭であった。

4-73 東武鉄道の時刻表(明治時代)
(新井家文書)


4-74 杉戸駅(杉戸町教育委員会提供)

 なお、開業の翌年の明治三十三年の乗降客は、一日平均一六六人。主な貨物は、積み込むものが、米・麦・瓦(かわら)などで、一か月平均二〇〇トン。降ろす貨物は、肥料・砂利・雑貨などで、一か月平均五〇トンであった。