戦火の拡大により、銃後奉公会は昭和十五年、武運長久祈願の日、英霊追慕の日、感謝慰問の日、軍人援護奉公の日、銃後奉公強化の日などを設けて銃後奉公の完璧を期した。また、慰問袋の作成が行われている。同十七年になると世論の動きを戦争体制へ結集させるため、警察署長、町村長、警防団長、在郷軍人連合分会長を中心とする與論指導委員会が発足し、講演会、映画会などが行われた。また、同年十二月埼玉県は、大東亜戦争第一周年記念行事として飛行機〝埼玉隣組号〟を陸軍、海軍へ各一機ずつ献納しようという運動を始めた。空襲が相次ぐ同二十年三月、大政翼賛会の諸団体は国土防衛のために国民義勇隊が結成された。
4-82 百間小学校北側で行われた軍時訓練(昭和10年代)
(中村氏所蔵)
政府は、同十六年八月資源特別回収に関する通達を発し、戦争遂行に必要な資源を国内でも調達しようとした。埼玉県では一般家庭を対象に、鉄、銅、黄銅、青銅などを材料としたものを戦時物資活用協会が回収にあたった。各家庭では塀、柵、門柱、門扉、墓地柵、広告板、広告塔、自転車置場、水桶、手摺などの他に、日常生活で使用している火鉢なども供出された。金属回収は神社や寺院にも及び、神具、仏具をはじめ灯籠や銅鐘も対象となった。当時、埼玉県内には回収対象の銅鐘が約四〇〇個あったといわれている。