昭和十六年四月一日からは国民学校令により「小学校」は「国民学校」と改称され、およそ七〇年間親しまれた小学校は姿を消した。戦況の悪化で、教育においても戦争遂行へと進み、同二十年三月決戦教育措置要領が閣議決定され、国民学校初等科の子供以外は学校での授業を四月一日から一年間停止して、食糧増産、軍需生産、防空防衛などに総動員されることになり、国民学校での教育は名ばかりのものになっていった。同十九年六月学童疎開促進要項が定められ、国民学校初等科三年生以上六年生までの児童の疎開が決められ、縁故による疎開、縁故者のない児童については集団疎開が勧められた。町域では、昭和十九年九月から同二十年十二月まで東京聾唖(ろうあ)学校(現筑波大学附属聾学校)の児童生徒が西光院、宝生院に疎開した。同十年四月一日に青年学校令、青年学校規程が公布され、実業補習学校と青年訓練所を統合し、青年学校が誕生した。国民学校卒業から徴兵年齢の二〇歳までの青年たちに対する軍事教練が強化され、軍人養成機関となった。一方、百間村では同年、字百間に木造二階建ての校舎で青年学校が開校した。