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戦後教育のあゆみ

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明治五年(一八七二)、「学制発布」とともに始まった近代日本の教育制度は同十二年「教育令」の布告、同十九年「学校令」が公布され、その後幾多の改正がなされた。昭和十二年(一九三七)、日中戦争の勃発とともに国民生活全般にわたり戦時体制に編成され、昭和十六年二月国民学校令が施行され戦時下の中で軍国主義、国家主義の教育が強く押し進められた。昭和二十年三月には国民学校初等科を除いて全学徒の授業は停止され、食糧増産、軍需生産に動員され、さらに戦時教育令が公布されるなど、学校の教育機能はほとんど失われた。
 昭和二十年八月十五日太平洋戦争の終結とともに占領軍の管理下におかれ、以後、政治、経済をはじめとする全ての分野にわたって改革が行われた。教育においても戦時下の教育体制は終止符を打ち、占領政策の一環として民主主義の新教育理念とそれに基づく新たな教育制度、内容、方法の整備が求められた。

4-88 黒塗り教科書(『青莪小学校百年誌』より転載)

 昭和二十年八月二十一日決戦教育措置法に基づく戦時教育令が廃止され、同月二十八日文部次官から「時局ノ変転ニ伴フ学校教育ニ関スル件」が通牒(つうちょう)され、学校の授業が再開された。軍国主義、国家主義的な戦時的教育を一掃し、平和国家建設を目指してその取り組みが求められている。こうした観点から、体練科の武道教練の廃止や神道教育の排除、さらに教員および教育関係者の教職適格審査機関設置が指示され「教職員の的確審査をする委員会に関する規程」が公布された。埼玉県でも昭和二十一年七月十六日付で設置され、一万二二九三人について審査され、不適格者七〇人と判定された。また、教科書や教材の不適当な部分の省略・削除が指示され、いわゆる「墨塗(すみぬ)り教科書」を用いての授業が行われることとなり、また、「修身、日本史、地理」の授業の中止、関係教科書等も回収された。一方、戦後の戦災復旧や食糧増産などの作業も大きな部分を占めており、とても満足な授業を行える状態ではなかった。
 終戦直後の混乱が続く中昭和二十一年三月、日本の教育界の現状を調査し日本教育再建に関する基本方針、諸方策を決定し連合軍総司令部に報告することを目的として、米国より教育使節団が来訪した。この使節団の報告書の勧告に基づいて内閣は「教育刷新委員会」を設置し、同年十二月に「教育基本法」が建議された。これを受けて、翌二十二年三月教育行政、社会教育等、民主主義教育を基本原則とした「教育基本法」が制定され、また、同日「学校教育法」も公布され、六年制の小学校、三年制の新制中学校が設けられ、いわゆる六・三制の教育課程が発足した。明治五年「学制発布」に次ぐ大きな教育改革が実施された。これによって国民学校、青年学校は廃止され、新しい学校制度九か年の義務教育制度が発足した。町内の小学校も「百間小学校」、「須賀小学校」と称せられるようになった。中学校も新たに設けられたが、物不足の中新たに学校を建設することは出来ず、青年学校校舎や小学校校舎の一部を用いて創設された。

4-89 百間小学校川島分教場(東小学校)(中村氏所蔵)