「戦後新日本建設の教育方針」(昭和二十年九月十五日)の中でもことに青少年団体の育成について示されていたが、昭和二十年十一月須賀村で一五、六人の大字単位の代表者による結成役員会が開かれ、「須賀村青年団」が結成された。長い間笑いや娯楽から隔絶されていた当時、まず「笑い」と「娯楽」をということで「青年団素人演芸会」を開催、また同二十二年の大水に際して水害救助活動を行うなど、村内運動会、農産物品評会、ナトコ映画会など戦後の荒廃した中で「新生日本の再建は青年の手で始めなければ」との熱い思いを胸に、まちづくりに大いに活躍した。各地より聞こえてくる青年団結成に刺激されて百間村でも青年自らの手による活動を通じ青年に希望をとの声が起き、昭和二十一年四月、百間小学校講堂に男女約三〇〇人が集まり設立総会が開かれた。陸上競技会、村民体育大会、総合文化祭、駅伝大会など運動会を中心とした活動が活発になされた。また、翌年の大水に際しての水害救助活動、敬老会(昭和二十四年ころから)、成人式、母の日の行事、映画会、料理講習会など幅広い積極的な活動が展開された。
4-93 百間村青年団による勤労奉仕
(『百間村青年団誌』より転載)
このように、青年団が中心となり戦後の混乱期にあって積極的に社会教育事業を推進し、人々に夢と生きる希望を与えたことは想像に難くない。昭和三十年には両村合併により宮代町連合青年団、そして宮代町青年会として統一され、以来、さまざまな文化、スポーツ活動を行った。こうした青年会も時代の流れとともに同三十八年度をもってその幕を閉じた。約二十年間にわたる活動は、戦後のまちづくりの一端を担ったととともに、その後の社会教育活動事業に脈々と受け継がれている。