さて、実習地となる山林五ヘクタールのうち三・五ヘクタールを開墾して畑とし、残りの山林の中に「日輪廠舎(にちりんしょうしゃ)」と称する直径一二メートルの円錐形のバラック建て、桧皮葺(ひわだぶき)の宿舎、収納兼作業所、炊事場、風呂場、井戸等を生徒の手により一か月余りで完成させた。大変な苦労であったようである。
ここで、合宿訓練が行われた。農作業や開墾が行われ、昭和十七年末頃までには開墾予定地のほぼ全部を開くことが出来た。
戦後は、この内一町五反歩を借り受け「百間農場」として農業実習に使われていた。また、町内には戦後実習地として中島に桑畑約七反歩もあった。
昭和四十九年二月杉戸農業高等学校が現在地へ全面移転したのに伴い、昭和四十八、四十九年に地主に返還され、三二年の長きに渡った実習地としての役割を終えた。
その後、農地として使われていたが、その大部分の土地について昭和五十四年に町営のグラウンド建設計画が持ち上がり、それに先立って発掘調査が行われ旧石器時代末から縄文時代後期にいたる遺構・遺物が発掘された。昭和五十六年には町営前原グラウンドが完成し、さらに昭和五十八年四月には学校用地となり、前原中学校が開校しその校庭として今日使われている。
4-96 百間農場
(『杉戸農業高校五十五年誌』より転載)