同年三月に農地の面積、所有および耕作の移動を中心として現況報告を行わせ、農地の実態について明らかにし、把握した。これに基づき小作地の買収を開始したのであった。
町域では昭和二十二年六月十五日、百間村で一九号、須賀村では二二号に分けての農地買収計画が公示され、これに基づいて進められ、同年七月二日百間村六町三反八畝二一歩、須賀村一六町八反一七歩が買収され、同二十五年七月二日までの三か年に渡る農地の買収が始まった。
百間村は、昭和二十年十一月二十三日現在、農地総面積五八一町一反三畝二一歩、その内訳として自作地二八七町五反七畝九歩、小作地二九七町五反六畝一二歩で小作率四九パーセントであり、農地のほぼ半数は小作地であった事がわかる。同二十五年(八月一日現在)には農地改革も一段落したが、この結果、農地面積は五八三町一反四畝二一歩、自作地五二七町八反二畝一五歩、小作地五五町三反二畝六歩、その他七反九畝となり、小作地率は九パーセントと大幅に減少した。百間村における買収された地主の戸数は在村地主一四二戸、不村地主三二戸、法人地主一五戸、在村地主で村外だけ買収されたものは三六戸、合計二二五戸であった。これに対して売渡をうけた在村の戸数は五一一戸であった。こうした農地改革の結果、百間村での土地所有面積別戸数は不耕作二戸、五反未満一三戸、五反以上一町未満一七戸、一町以上二町未満九五戸、二町以上三町未満一五戸となった。なお、改革前の所有面積別戸数は、一町未満四二戸、一町以上三町未満五七戸、三町以上五町未満二一戸、五町以上一〇町未満一七戸、一〇町以上五〇町未満五戸、合計一四二戸という実態であった。
一方、須賀村では、昭和二十年十一月二十三日現在で農地総面積五三八町五反五畝二九歩、うち自作地二二一町六反六畝二九歩、小作地三一六町八反八畝二五歩であり、小作率五九パーセントであった。昭和二十五年(八月一日現在)では農地総面積五三八町五反五畝二九歩で、自作地四八一町二反三歩、小作地五七町三反五畝二六歩であり、小作率は一〇・六パーセントと百間村とほぼ同様に大幅に減少した。須賀村における買収された地主の戸数は在村地主五二戸、不村地主七二戸、法人地主二二戸、合計一四六戸であった。これに対して売渡をうけた在村の戸数は四三四戸であった。こうした農地改革の結果、須賀村での土地所有別戸数は不耕作一戸、五反未満一〇戸、五反以上一町未満一四戸、一町以上二町未満二二戸、二町以上三町未満五戸となった。なお、改革前の在村地主の所有面積別戸数は、一町以上三町未満一八戸、三町以上五町未満一九戸、五町以上一〇町未満一二戸、一〇町以上五〇町未満三戸、合計五二戸という実態であった。
4-97 農地等開放実績調査(昭和25年)
4-98 農地解放前と後の農地面積
農地改革の結果、全国的にみても農地の小作地は改革以前が五〇・六パーセントであったものが一三・ ・五パーセントに、自作農家も五五パーセントと過半数を超えた。南埼玉郡域でも小作地は八・九パーセントと大幅に低下した。
このように小作地もかつて両村平均四五パーセントであったものが、平均一〇パーセントと大幅に減少し、小作層が減り、一町以上二町未満の所有地をもつ小規模な自作層が農村の経営の中心となり、地主小作関係はほとんど消滅し、村落の様子も大きく変化した。昭和二十六年三月政府は農地改革の完了を宣言し、同年三月三十一日農業委員会法が公布され、農地委員会から農業委員会へと変わった。さらに翌年七月十五日、自作農創設特別措置法等農地に関する法律を一本化して農地法が公布された。