戦後農業の民主化を柱とした「農地改革」が昭和二十一年(一九四六)十二月から始まり、同二十六年三月の政府による完了宣言まで四年三か月にわたり行われたが、終戦後の食糧不足は極めて深刻な状況にあった。
昭和二十年度の米の収穫は労働力の不足、肥料不足による地力の低下、さらに天候不順のため作況指数五八・六パーセントと大凶作となり、政府の供出奨励にもかかわらず割り当ての七七・五パーセントにとどまった。県内では、昭和十九年度は一四五万石の収穫があったが、昭和二十年度は一〇五万石と四〇万石の減収となり、復員軍人、引揚者などによる急激な人口増加によって食糧危機という状況に陥っていた。昭和二十一年五月末で米の供出は割当量の八三・二パーセント、一五一万六一一七俵しか集まらなかった。加えて、昭和二十二年にはカスリン台風による大水害で一層の危機的状況になった。
こうした中政府は米価の引き上げ、早期の供出奨励金の加算、報奨物資の特配、ヤミ取締りの強化などを行った。生産者米価も昭和二十年度産米一石当たり九二円五〇銭から一五〇円に、さらに三〇〇円に引き上げた。供出は、米のみならず、甘藷(かんしょ)(サツマイモ)、麦、豆類、雑穀、葉茎などにも及んだ。さらに政府は強制的な食糧供出の内容を盛り込んだ昭和二十一年二月二十七日「食糧緊急措置令」を施行し、埼玉県でも「食糧供出緊急対策要綱」を定めて農家に対して米や甘藷等の供出を督励し、供出完遂のための諸施策がとられた。昭和二十一年七月八日付けの食糧管理局通達で、都道府県食糧管理調整委員会、市町村食糧調整委員会の設置を決定し、同年八月二十四日、食糧管理法施行規則を改正し正式に法制化した。
これを受け町域の村も調整委員会を設け供出米の調整を計り、農家に完納を訴えた。昭和二十一年六月二日付の埼玉新聞によると、百間村が埼葛地方事務所で管内で供米八五パーセント以上の優良町村として軍放出物資の地下足袋、衣料品を贈られている。また、昭和二十三年の麦が百間村二六三石、須賀村二五五六石、ジャガイモが百間村一万一二五〇貫、須賀村一万四九五〇貫の割り当てがおこなわれた。食糧増産は農家にとどまらず農家以外の家庭でも空き地や庭先までも耕地として作物を作った。また、学校でも学校農園を設置し、校庭などに甘藷や野菜等を栽培し、食糧増産に取り組んだ。
このように戦後の食糧難に対して、米等の供出を始めとする農家を中心とする人々の懸命な努力がなされた。