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農業基盤の整備―食糧増産と土地改良―

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食糧危機に伴って、食糧の増産が緊急の課題となった。昭和二十四年に「土地改良法」が公布され、さらに関係法令を整備し、農業水利改良、農地の交換分合、区画整理、湿田改良等がなされ、食糧増産の施策として実施された。
 開拓事業による耕地の拡大も県内では行われたが、耕地の用排水不良地の改良による増産が緊急の課題となった。昭和二十五年県耕地面積一五万六二二町歩のうち五一パーセントが用水不足地、用排水不良地、排水不良地で、水利施設、客土などの改良を必要とする状況であった(県史資料編 近現代4)。こうした中埼玉県では、昭和二十五年度「土地改良五か年計画」を作成し、用排水改良工事を実施した。町域では、黒沼笠原用水、大落古利根川が該当した。

4-99 赤松浅間神社付近
(知久氏所蔵)

 町域でも戦後、土地改良、農業水利の改良、陸田の実施等農業基盤の整備が積極的に行われた。
 宮東地区では、古利根川から水を汲み上げる揚水機が地域の人々の努力によって昭和二十一年八月に設置され(宮東揚水機組合記念碑)また水路も整備され、水田への給水施設がつくられた。安定した水の供給によって米の増収が計られた。また、昭和二十六年三月から同二十七年六月にかけて宮東松ノ木島地区では、東部地域での先駆けとして約一〇町歩を計画面積とする畑地の灌漑工事が行われた。古利根川から水を汲み上げる陸田揚水機の設置や水路が整備され、それまで桑畑や大麦や大豆等を作っていた畑が水田(陸田)として生まれ変わった。古利根川の右岸に位置する自然堤防上の砂目の上であったため当初作付の苦労は大変なものがあったという。松ノ木島での成功以降、同様に古利根川の流域である川端、内野、若宮と一斉に陸田揚水機が設置され、畑の陸田化が進んだ。その後、古利根川の流域以外の地域では、上総(かずさ)掘りと呼ばれる方法などによる「つき井戸」を掘って畑の水田化(陸田)を行った。昭和二十六年度の農業関係の統計では全く見られなかった陸田も、昭和三十二年には二二九ヘクタール、昭和三十九年には三六一ヘクタール、昭和五十年には水田総面積八七六ヘクタールの四六・一パーセントに当たる四〇四ヘクタールと大幅に増加した(『中川水系』人文)。
 昭和二十八年九月二十二日付の埼玉新聞に「全村の土地改良計画 須賀村 5か年継続事業で」とあり、総予算六〇〇万円で用排水路の新設区画整理を実施し従来湿田で実施できなかった二毛作の実施等相当量の農産物の収穫が見込まれるとあり、土地改良に対する施策が実施されたことがうかがわれる。
 本格的に土地改良が始まったのは、昭和三十年代になってからである。受益面積四八ヘクタールの百間土地改良が昭和三十年三月認可され実施されたのを始まりとして、宮代第一土地改良から昭和四十年四月認可の宮代第六土地改良、昭和四十一年四月認可の宮東土地改良、西粂原土地改良、昭和四十二年五月認可の若宮土地改良、昭和四十三年十二月から実施された榎土地改良、昭和四十八年十月認可申請の沖ノ山土地改良を始めとして、中島地区、堂沼地区などの土地改良が各地で盛んに行われた。
 なお、昭和三十九年三月二十七日付の埼玉新聞には「土地改良、月末には完成へ 宮代町百間地区」との見出しで宮代第三土地改良区について大谷耕地五五ヘクタールにかかる区画整理と農道、用排水路等の整備事業の九〇パーセント以上が完成、トラクター、三輪車などが使え、労働力の節減と農業の近代化について報じている。
 戦後の食糧難に対する食糧の増産、米の増産から始まった用排水施設の改良整備と土地改良は、さらに農作業の機械化等による近代化に一層拍車をかけた。昭和三十九年の東京オリンピックを契機に、日本の高度経済成長が始まったが、この前後に農業の機械化が急速に進んだ。

4-100 町内の農地整備(区画整備)完了地区調査表(平成8年3月現在)