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昭和三十年代の農業

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宮代町は、台地と自然堤防、そして低地からなり、概ね標高七メートルを境に低湿地と高台に分かれる。こうした地形を背景として水田稲作、畑作等が営まれていた。
 米は、一般的に弥生時代以降連綿と作られていたが、明治時代の記録を見ると意外にも穀類の五割は麦であったことが記録されている。米は二二パーセントに過ぎず、大豆一九パーセント、そしてあずき、あわ、そば、えごま等が作られ、穀類以外では木綿やサツマイモ等もつくられ、製茶、養蚕も行われるなど多様な農業実態であったことがうかがえる。
 それから七〇数年経た昭和二十五年には米の作付面積(水稲と陸稲)五三三ヘクタールで全耕地面積の約五一パーセント、麦一四九ヘクタールで、同じく一四パーセントであり、米の作付が五〇パーセントを超えたのはわずか五〇年ほど前であったのである。かつて町域の農業が畑作中心であったことがこの数字によって明らかである。

 


4-101 耕地整理前と後の状況(中島土地改良区)(『みやしろ』より転載)


4-102 町内の農地整備(区画整備)完了地区
(平成8年3月現在)

 昭和三十三年度に宮代地域農業振興協議会でまとめられた「宮代農林業地域一般基礎調査」という貴重な記録がある。当時の農業の実態について詳細にまとめられており、それを紐解き、当時の農業一端を見てみよう。
 水稲栽培は六二一町八反歩、陸稲一二四町二反歩であり、反収にすると水稲約二石三斗、陸稲約一石と水稲と陸稲では二倍以上の開きがあった。畑作物としては、野菜、イモ類、果実、雑穀、豆類などがあげられる。総生産量の記録では甘藷が最も多く、次いで葉菜、果菜、大根、馬鈴薯、里芋、果樹、牛蒡、人参、大麦、茶、小麦、陸稲の順位となっている。
 畑作物の内容は麦が大麦、小麦、裸麦。芋類としては甘藷、馬鈴薯。穀類としてはとうもろこし、粟、そば。豆類としては、大豆、えんどう、そらまめ、いんげん、あづき、ささげ、落花生。野菜は非常に多く、きゅうり、しろうり、かぼちや、すいか、なす、とまと、きゃべつ、白菜、ほうれんそう、葱、玉葱、大根、かぶら、人参、牛蒡、さといも、その他。果樹としては、ブドウ、梨、梅、柿。工芸作物は、なたね、ごま、こんにゃく、茶、綿、採種そさい、れんげ、青刈とうもろこし。飼料作物及び牧草として、スーダンダラス、青刈大豆、飼料用甘藷、青刈麦類、れんげ、かぶ類、その他とある。非常に多様な作物が作られていたことが分かる。
 なお、畜産としては乳用牛、役肉用牛、馬、めん羊、山羊、豚、兎、あひるがあり、にわとり、豚、牛の飼育が多かった。また、養蚕は戦前六五パーセントの農家が行っていたが、桑畑が戦中、戦後の米・麦に転換され約一七パーセントと大幅に減少している。また、脱穀機、籾擦機(もみすりき)、精米機、自動耕運機、製縄機、カルチベーター等の農機具があげられているが、農家一戸当りにすると脱穀機〇・七三台が最も高く、自動耕運機は八五台で〇・〇八台と非常に低く、僅かに機械化されてきたものの総じて手作業に負うところが大きかった。なお、昭和四十三年の記録では農業用トラクターが一〇四七台、田植機も三四台、コンバイン二六台、乾燥機六〇七台、動力刈取機二四五台等を数え、その後の一〇年間で急速に機械化が進んだことがうかがえる。
 このように米麦を中心としており、これに対する依存度も高いことがうかがわれ、また、酪農、養鶏がこのころ取り入れられ、その際、果樹園造成等も行われつつあったが、概ね従来から行われてきた農業経営であったようである。