ことに、高度経済成長期以降兼業農家の顕著な増加が見られる。これは、農業と非農業の所得格差が広がり、それに対応するため農業以外に収入の道を求めたことによるものであり、これに拍車をかけるように農業の機械化が進んだことや農業生産構造が水田稲作を中心としていたことも兼業を容易にした大きな要因であるといえよう。宮代町の農業もまさにこうした広日本的農業の動向の中にあり、合わせて都市近郊という立地的な条件もその在り方に大きな影響を与えていることは言うまでもない。
4-103 暗渠の掘削作業(『ゆずりは』より転載)
農業を営む農家戸数の変遷は、こうした戦後の農業の動きを如実に表している。戦後農地改革によって自作農が増加し、宮代町での昭和二十五年の農家戸数は一〇五一戸で、そのうち約六二パーセントが専業農家であり、農業を主とする第一種兼業農家は約三三パーセントで、農家のうち約九五パーセントは農業を主体としていた事が分かる。なお、農家に占める兼業の割合は三八パーセントである。また、町域全世帯に対する農家の割合は約五七パーセントと半数を超えていた。
一〇年後の昭和三十五年になると、農家戸数一〇五四戸と微増するが、専業農家が減少し兼業農家が増加している。一〇年前に比べ、専業農家が三五パーセントも減少し、変わって兼業農家が三六パーセントに増加し、増減が入れ替わっていることが分かる。なお、農家戸数に占める兼業農家は六〇パーセントと大幅に増加している。
昭和四十五年には農家総数九六一戸と次第に減少している。このうち専業農家は一一七戸と一〇年前に比べて四一パーセントも大幅に減少し、第一種兼業農家を含めても五五パーセントと大きく減少している。これに対して、兼業農家が農家戸数の八八パーセントとさらに大幅に増加した。昭和四十二年、四十三年と米が大豊作となり、米の過剰が生じ、これへの対応が農政の大問題となり、日本史上未曾有の米の生産調整が昭和四十四年から始まり、昭和四十五年から本格的に実施された。ちなみに、水稲作付面積で見ると昭和二十五年五三三ヘクタール、昭和三十五年八三一ヘクタール、昭和四十一年九三〇ヘクタールとピークを迎え、生産調整が本格的に実施された昭和四十五年八一〇ヘクタールと昭和三十四年の作付面積と同規模に減少し、さらに昭和四十六年には六六三ヘクタールと大幅に減少している。こうしたことが、専業農家の大幅な減少と兼業農家の増加につながったものといえよう。経営面積的には、昭和四十五年段階では昭和三十五年に比べて〇・五以上二ヘクタール以下の農家が減少し、ことに一ヘクタールから二ヘクタール以下の農家の減少率が著しい。
さらに、昭和五十五年には、農家戸数八三九戸と一〇年間ごとの比較でみると減少率が昭和二十五年以降最も高い数字を示している。この間、宮代台団地、学園台団地、姫宮北団地、姫宮南団地と団地造成がなされ、人口も約一万七〇〇〇人から約三万人と一万三〇〇〇人も増加し、急激に都市化が進んだことを示しており、農地の減少、農家戸数の減少と軌を一にしていることがうかがえる。専業農家も四〇戸と過去最低を記録した。昭和二十五年当時の六パーセントに過ぎず、実数で実に六〇六戸も減少している。これに変わって、兼業農家は全農家戸数の九五パーセント、ことに第二種兼業農家は七二パーセントを占め、専業農家と第一種兼業農家を合わせた農業を主体とした農家の割合も約二八パーセントと昭和二十五年の第二種兼業農家の数字とほぼ同様で、この三〇年間に農業主体から農業以外を主体とする生活へと大きく逆転したことがうかがわれる。以来、平成の時代に入り、さらに農家戸数の減少、第二種兼業農家の増加等農業構造が大きく変わった。
このように昭和二十五年以降、次第に農家戸数は減少し、全戸数に占める農家の割合は、昭和二十五年では五七パーセント、昭和三十五年は五二パーセント、また、昭和四十年は約三七パーセントで昭和五十年には一五ハーセントと一〇年間で半減している。昭和五十五年一〇パーセント、平成七年には六パーセントを占めるに過ぎなくなっている。また、平成十二年の農家戸数は昭和二十五年に比べ四四パーセントも減少している。そのうち、兼業農家は昭和二十五年に約四割であったが、平成七年には九割を越えている。田畑の耕地面積の比較では昭和二十五年に比べ、平成七年の統計と比較すると三〇パーセント減少している。ちなみに県域全体で見ると農家戸数は昭和二十五年でおよそ四割、昭和三十五年には三割となり、平成七年の農家戸数は昭和二十五年の約二分の一となっており、町域より高い数値を示している。また、兼業農家の割合は昭和二十五年には約三八パーセントであったが、平成七年には八八パーセントに達している。
4-104 農作業風景(昭和30年代)
このように、宮代町の農業も戦後の農地改革等を経て、また経済の高度成長や急激な都市化などの社会情勢の変化に伴い大きく変わったが、幸い町域には水田や畑も比較的多く残り、山林や、農家の屋敷林といった風景も広がり、自然面率も五〇パーセントを超え、安らぎと潤いのある景観が広がっている。こうした景観を大切にし、まちづくりに生かす、人間と環境が調和した景観と暮らし循環型環境社会の創造を目指した「農のあるまちづくり」への新たな取り組みが始まっている。