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コラム 陸田(りくでん)の普及

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 戦後の食料の増産期から高度成長期にあたる昭和四十年代にかけて、関東平野中南部の台地や自然堤防などの微高地は急速に水田化された。これがいわゆる陸田である。
 陸田は、本来は水田に対する乾田、すなわち畑のことであり、特に古代の律令制度下では、粟、麦、豆などの雑穀耕作を行った土地をいう。しかし、戦後に広まった陸田は畑地から水田化したものを陸田と呼んでいる。
 畑に突井戸や掘井戸といった井戸を掘ったり、用水等から水を汲み上げる方法などで畑に水を引く。後は水田と同じように畦(あぜ)をつけ代掻(しろか)きをし、田植えをした。なお、昭和三十年代の突井戸は、上総掘と呼ばれる方法で掘られたものである。
 町内では、昭和二十六年の統計では全く陸田は見られなかったが、昭和三十二年には二二九ヘクタール、昭和三十九年には三六一ヘクタール、さらに昭和五十年の統計では水田総面積の四六・一パーセント、四〇四ヘクタールと大幅に増加した。
 これは、当地が台地と低地との比高差が二から五メートルとごく僅かで比較的平坦であり、古利根川を始め用水等の水源に恵まれている所であることや、揚水ポンプの普及、さらに都市化に伴って兼業農家が増加し、機械化による省力的な作業を行うようになったことなどが理由として考えられる。
 最近では、減反や都市化が進むなかで陸田も非常に少なくなっている。

4-105 上総掘の井戸(上原氏所蔵)