戦後の混乱が続く昭和二十二年(一九四七)の秋、未曾有の水害が関東地方を襲った。俗に「二十二年の大水」と呼ばれ、明治四十三年(一九一〇)に起こった大水害と並び称されることとなった。関東地方では古くから度々水害にあってきたが、ことに昭和二十二年の水害は江戸時代寛保(かんぽう)二年(一七四二)、天明(てんめい)六年(一七八六)、弘化(こうか)二年(一八四五)、安政(あんせい)六年(一八五九)、そして明治四十三年の大水害と並び、いやそれ以上の大水害であったと水害から三年経った昭和二十五年五月に刊行された県水害誌は伝えている。
昭和二十二年九月八日マリアナ東方洋上に弱い熱帯性低気圧が発生し、次第に発達し台風となった。この台風を洋上で観測していた在日駐留米軍は「カスリーン」という女性名をつけた。このカスリーン台風は、十三日午後硫黄島洋上に達し、十四日鳥島付近にあって次第に勢力を拡大し速力をましていった。同日午後三時紀伊半島沖を進み、夜半房総半島沖をゆっくりと通過、東北洋上へと抜けていった。この間、県内では風力は最大風速一七・五メートルとさほどではなかったが、雨は十三日正午ごろから降り出し、十四日夜に入るころから本格的な豪雨となり十五日朝一時弱まったが、その日の午後の雨は俗に「盆を覆(くつが)えす」有様であったという。
十五日夜半、降り続いた雨もようやくやんだ。十三日から十五日の三日間、熊谷で三六一ミリ、秩父六一一ミリ、本庄四〇三ミリと過去最大の豪雨であった。なお、杉戸では一六七・八ミリであった。この時の大雨の特徴としては、平野部では比較的雨も少なかったが、山岳地方は短時間に多くの雨が降ったことである。十四日の記録を見ると秩父三五九・八ミリ、三峰三三九・五ミリに対して、平野部の杉戸五四・三ミリ、岩槻七八・七ミリ、吉川では三四・二ミリと最大三二五・六ミリの差があったという。
おりしも、戦中、そして戦後二か年の復興に係る山林の過濫伐は全国至るところに見られ、河川の上流部の山林は荒廃していたところへ、今回の台風によって多量の雨水がもたらされそれを蓄えられずそのまま下流へと押し流し、この結果下流の水位は急激に上昇し、堤防の決壊という大きな災害をもたらすこととなったのである。
荒川流域では、十四日から次第に上昇し、十五日午後三時から午後四時に最高水位に達し、水が溢れ、橋梁の流失、山崩れ等が相次いで起こった。熊谷市内等の堤防も決壊し、熊谷、行田、吹上、鴻巣、そして栢間(かやま)(菖蒲町)付近まで達したという。