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合併への道

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戦後の日本の財政は極度に悪化し窮迫の状況にあった。こうした中、市町村の規模を合理化し健全な行財政の基盤を確立すべく行われたのが「町村合併」であった。
 昭和二十四年(一九四九)と翌年の二度にわたって戦後の窮迫した財政状況を抜本的に改革するためシャウプ使節団は、税財制度の改革に関する報告書を提出した。その中で、「市町村が、学校、警察その他の活動を独立して維持することが困難な場合には、比較的隣接地域と合併することを奨励すべきである。市町村または府県の合併が行政の能率を増すために望ましい時にも又これを奨励すべきである。このようにすれば、小規模な行政による不利益を克服できるであろう。」と健全な市町村の運営の観点から合併の必要性を強調した。
 こうした勧告を受けて、政府は昭和二十四年十二月「地方行政調査委員会議」を設置し、翌年十二月「行政事務再配分に関する第一次勧告」、昭和二十六年九月「第二次勧告」を行った。その概要は、「行政事務の再配分が、①行政責任の明確化、②能率、②地方公共団体の優先、ことに市町村優先の三原則を掲げ、強力な市町村をつくることを目指したのであった。概ね七~八〇〇〇人程度の人口規模を標準として①人口と面積、②町村における重要な事務が最も効率的に行いうる規模、③町村職員を最も効率的、経済的に配置しうる規模、④都市と農村との利害得失関係、⑤住民の共同意識培養の可能性などを検討の上、規模の合理化を図るべきである。その実施にあたっては、府県単位に委員会を設けて、地方の実情に即した具体化の方法を調査研究することが適当であろう。」(「県市町村合併史」上巻)という内容であった。
 こうした勧告を受け、国は昭和二十六年一月「地方行政調査委員会議の行政事務再配分の勧告に関する件」、「行政事務の再配分及び市町村の規模の合理化に関する件」を各都道府県知事宛に通知し、このための委員会・協議会の設置を指示した。さらに、町村合併実施のため昭和二十七年に地方自治法の一部改正を行った。また、翌二十八年八月「町村合併促進法」を三か年の時限立法で制定し、十月から施行された。

4-110 埼玉県による合併試案
(『埼玉県合併史』より一部改編)