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文化の薫り高く、風格と調和のとれた健康的なまちづくり―昭和四十~五十七年―

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昭和四十年代、純農村地帯であった町も首都圏四〇キロ圏内という好条件のもと、次第にベッドタウン化が進んだ。昭和四十五年には人口約一万六七〇〇人を数え、世帯も約四〇四〇世帯と急激に増加し始めた。昭和四十年から四十五年までの増加率は二七・九パーセントを示している。その後、宮代台、学園台、姫宮の各団地が造成され、昭和五十年には増加率三五・二パーセントと最も高い数値を示している。こうして昭和五十五年には人口も約三万人程となり、急激に人口増が進み都市化が進んだ。また、昭和四十四年の統計では工場数五六、従業員六六二人を数え、その後、中大規模の工場の立地も進んだ。同年の統計では商店は二〇四店を数え、昭和五十七年には三三五店と大きく増加している。

4-118 昭和40年代の杉戸駅 (東武動物公園駅) 前通り
(杉戸町教育委員会所蔵)

 昭和四十一年八月には、都市計画法の指定を受け全町が都市計画区域に指定され、より計画的なまちづくりが開始された。

4-119 人口及び世帯数の推移


4-120 姫宮団地

 昭和四十四年八月には新都市計画法が施行され、翌年宮代町においても市街化区域が決定され、町の総面積の一九パーセントにあたる三一三ヘクタールが市街化区域となり、一三一三ヘクタールは市街化調整区域となった。無秩序な開発に歯止めをかけ、計画的な土地利用を図り健康で文化的なまちづくりを推進するために設けられたものである。さらに、昭和四十五年土地利用について住居区域など八種類の用途地域の指定を行った。昭和四十八年には市街化調整区域の全て一三一三ヘクタールを農業振興地域に指定し、さらに翌年農用地区域として三〇二ヘクタールを指定した。
 昭和四十一年からは、社会教育施設として公民館の整備が始まった。宮代町の公民館第一号として和戸公民館が、昭和四十四年には百間公民館、その後、川端公民館(昭和四十六年)、須賀公民館(昭和四十六年)(平成九年度廃館)、和戸第二公民館(昭和四十八年)、西原公民館(昭和五十年)、西粂原公民館(昭和四十九年)(平成十一年度廃館)と各地に相次いで造られ、社会教育、文化活動・コミュニティーの場等の拠点としてその発展に大きな役割を果たしている。さらに地区コミュニティーの拠点として昭和四十七年から集会所の建設が始まった。四十年代八か所、五十年代二〇か所、六十年代二か所、平成になって七か所が造られており、地域活動の拠点として各地に建設された。一方、こうしたコミュニティーづくりの拠点施設として町制施行二五周年を契機として「コミュニティーセンター進修館」がオープンした。ローマのコロシアムを思わせる半円形の独特の建物は、斬新な建物であり内外の注目を集めている。

4-121 百間公民館(昭和50年代)

 進修館の名称は学制の発布に伴って開校した百間小学校の前進である「進修学校」の名称にちなんで名付けられた。町のシンボルでもあり、町民のコミュニティーの場、まちづくりの場として幅広く利用されている。このように、公民館、集会所、コミュニティーセンターと、町民に最も身近な施設の整備が進められ、町民主体のまちづくり推進に大きな役割を果たしているものとして特筆される。

4-122 コミュニティーセンター進修館

 一方、昭和四十二年には、環境、交通の利便性等から一九万八三四七平方メートルの敷地を有する日本工業大学が大字須賀の地に開校した。当大学は、学校法人東工学園が新設した理工系の大学である。機械工学科、電気工学科・建築学科が設けられた。その後、施設等の充実が図られ、現在約四〇〇〇人の学生がここで学んでおり、大学との交流等「大学のある町」としてのまちづくりも進められている。
 その後、町立保育園の開園、小中学校の校舎、プール、体育館等の教育、福祉施設の基本整備もなされた。
 昭和五十年代には、児童の増加に伴い昭和五十六年に笠原小学校が開校した。笠原小学校は赤色の鉄筋二階建て、切妻方瓦葺農村住宅をモチーフに「学校はまち」「学校は住まい」「学校は思い出」の三つのコンセプトの基に造られた。さらに学校施設の整備、昭和五十六年東武動物公園の開園、それに伴い杉戸駅も東武動物公園駅と改称され地下鉄の乗り入れも開始された。

4-123 笠原小学校

 このように、地域コミュニティーづくり、教育、文化に力を注いだ文化の薫り高いまちづくりが進められた。