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水と緑のまち―昭和五十七~平成二年―

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昭和五十年代までの急激な人口増加も、昭和六十年代に入って緩やかな増加に転じた。平成二年には約三万四〇〇〇人となり、世帯も一万を超えた。なお、人口の増加率に比べて世帯数の増加率が大きく、世帯の小規模化が急速に進んだことがうかがえる。また、高齢化、少子化も同時に着実に進んでいる。一方、商工業は、平成元年で六三の工場があり、商店数は平成三年には三四五店といずれも微増している。
 こうした中、昭和五十七年に水と緑のまちづくりを基本理念として基本構想が策定され、すべての住民が恵まれた自然と調和した快適な生活環境の中で健康で文化的な生活ができ、生きがいのある人生を送ることのできる宮代町を目指して取り組んだ。

4-124 姫宮落堀の桜
(昭和60年代)

 昭和五十七年二月には町のシンボルマークである町章、町旗が制定された。また同年四月に埼玉県立宮代高等学校が開校し、幼稚園から大学まである「文教都市」宮代が誕生した。同年には、人口も三万人を超え、児童生徒も増加し、翌年に前原中学校が開校した。さらに昭和五十九年には防災行政無線、宮代町消防署(現在久喜地区消防組合に加盟)の発足、昭和六十年に公共下水道都市計画が決定され、都市計画道路が計画決定されるなど都市基盤の本格的な整備が始まった。
 昭和六十年には、町政施行三〇周年を迎え、宮代町もいよいよ充実期に入った。三〇周年を記念して「宮代の歌」と「宮代音頭」がつくられた。昭和六十三年には、総合運動公園の一部が開設され、多目的広場、ソフトボール場の利用が始まった。
 そして、年号も昭和から平成へと移り変わったこの年、埼玉県立宮代養護学校が開校した。そして、平成二年には西原自然の森内に児童館と老人福祉センターの複合施設であり、子供から高齢者まで幅広く楽しめ、交流できる「ふれ愛センターみやしろ」が、また働く者の運動施設である勤労者体育センターがそれぞれオープンした。

4-125 宮代町の中心市街地