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[耕作地と作物]

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 宮代町の町域は、基本的に農業中心の地域であった。田と畑の比率は、全体的に見ると畑が田を上回り、一九三〇年の統計によると、田の面積は旧百間村で約二七八町、旧須賀村で約二一四町で合わせて四九二町、畑の面積は旧百間村で約三四九町、旧須賀村で約三二九町で合わせて六七八町であり(『埼玉県市町村誌第一八巻』)、その比率は、田四二%、畑五八%で畑の割合が上回っている。
 田では、稲の生産が行われてきた。また、裏作として田小麦や菜種を作る事例も見られる。しかし、用水路からの水を利用する田では、比較的早い時期に水が入るため小麦や菜種の作付けは行われない。また、宮代町域では、堀上田といわれる田が、笠原沼や国納沼などのかつての沼地で見られた。堀上田は、江戸時代中期沼地の新田開発の方法で、櫛の歯状に作られた細長い田で、沼底を掘り土を上げて作った田である。このほか、金原付近では摘田と呼ばれる田も見られていた。摘田は、用水が届かず水の調整が困難な泥深い田で、田植えを行わず、直接播種する稲作方法が行われる田である。なお、稲作方法自体も摘田と称されている。
 畑では、主として秋から春には大麦や小麦、春から秋には大豆、小豆、稲の生産が行われるのが一般的であった。このほか、自家用としての野菜などが作られるが、特別なものを除いては出荷するほどの量ではなかった。大豆や小豆にしても、肥料を含めた自家用としての生産の傾向であった。養蚕が多く行われていた時期には、畑を桑園にする事例もあった。また、中地内では島畑と呼ばれる、文字通り小さな島状の畑が田に点在した。
 昭和三〇年代以降は、畑の陸田化が進んだ。