東粂原の耕地は、田と畑がほぼ同じ程度の比率であるが、畑は半分以上を桑園として利用していたケースが多いこともあって、その分、耕作をするのは田の比率が高くなっていた。春から秋は、田では稲、畑では大豆、小豆、そば、さつまいもを作り、冬は畑で麦を作った。比較的乾燥している田では、二毛作で麦も作っていたという。渋谷地区のある家では、田を九反、畑を六反耕作していた。このうち田の二反弱くらいで裏作の麦を、また、畑六反のうち四反五畝ほどが桑園としていたという。
第二次世界大戦後、養蚕が行われなくなったり、麦も作られなくなるなかで、昭和五六年に多くの田のあった旧笠原沼が東武動物公園になり、田が少なくなり、東粂原の農業形態は大きく変化をしている。