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東B家の営農概観

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 東付近の畑は、砂土の畑と軽い土の畑に分かれる。古利根川の端の畑は、砂土であり米を作ってもおいしい。しかし、水はけが悪い畑である。一方、西光院付近の畑は、軽い土であり、どちらかというと痩せた土地である。しかし、水はけは良く野菜にはよい。B家では、田を一町二反、畑を六反耕作していた。田は、田植えを行う普通の田が一町、このほか二反は摘田と呼ばれる直播の稲作で行う田であった。畑では、冬は大麦、小麦を作り、夏は大豆と陸稲(おかぼ)を作った。大麦は四反四畝、小麦は一反五畝程度であった。毎年同じ畑で同じ作物を作るよりも、交互に作った方が出来が良かった。畑で作る陸稲は、糯米だけを作る。水田でも糯米(もちごめ)を作るが、陸稲は糯米だけであった。糯米は倒れやすく収穫が少ないためという。
 なお、このほか養蚕を、春蚕、夏蚕、秋蚕の年三回行ったものである。春蚕は、四月末に掃き立て、麦刈りの時期にヒキた(ヒキたとは、蚕が糸を吐く兆候を見せはじめた、という意味)。夏蚕は、八月初旬に掃き立て、盆後高野の施餓鬼前にヒキた。秋蚕は、九月初旬に掃き立て、九月一杯にヒキた。生産した繭は、白岡にあった南埼玉郡乾繭利用組合の乾繭所に出荷した。当時、この乾繭所には南埼玉郡のほとんどの繭が集まってきたという(『白岡町史通史編下巻』二三六ページ)。