稲については、一般的に中国大陸を発祥とし、朝鮮半島等を経由して入ってきたものと考えられており、以来、古くから品種改良が盛んに行われてきた。これは、味の良い米をなるべく多く収穫するためであり、時代によってさまざまな品種が登場している。多くの品種の中から、作付けをする品種を選ぶ際には、収穫量や味のほか、早稲、中稲(なかて)、晩稲(おくて)というように作付け時期、台風などの影響を受けて倒伏しやすいかどうかといった要素が検討されていた。倒伏については、丈が低くなる品種や、茎が硬い品種が倒れないとされた。
なお、昭和四〇年代頃の陸田の普及以前は、陸稲が盛んに作られていた。
東粂原のI家では、戦前は選一、不作知ラズ、八関、愛国といった品種があり、戦後になると、農林二五号、二九号、金南風、万両、日本晴、コシヒカリという品種を作った。
選一は、辰新田のある家で昭和二〇年代に耕作していたという。早稲で、丈が低くて倒伏しづらい、小粒でおいしい米であったとしている。不作知ラズも、辰新田のある家で昭和二〇年代に耕作していたという。晩稲で、背は長く倒伏しやすいが収量の多い大粒のおいしい米であったとしている。金南風は、晩稲で丈が低くて倒伏の恐れのない品種で、反当たり七俵程度穫りえる多収であった。ただし、稲穂がこぼれやすく、味はあまりよくないとされた。日本晴は、背が低く倒伏の恐れのない品種であるが、酒米としても用いられ収量が多かった。しかし、虫がつきやすく作付けをやめたという。
また、姫宮のある農家では、戦前には越中早生、八関、銀坊主、農林二五号、農林八号といった品種があり、戦中になると八州が入ってきた。戦後になり昭和二二年の水害以降品種は大きく変わり、近年ではコシヒカリ、アキニシキといった品種を作るようになった。越中早生は、この中でも最も早稲の品種であり、彼岸には食べられるが、あまり作らなかった。八関は、早稲で一〇月一五日ごろには刈ることができる。味が良い品種であったが、ノゲがあり、丈があるため倒伏の危険のあるといった難点もあった。銀坊主は、中稲の品種で、味はいま一つであったが、収量が多く、茎が硬く倒伏の恐れの無いという利点があった。農林八号は、晩稲であった。味もよく、収量も多く、背も高く倒伏の恐れがない品種であり、人気があった。農林二五号は、銀坊主と農林八号の間で、中稲と晩稲の中間であった。収量もあり、カラもコワクて倒伏の恐れはないが、水が早く切れる場所では、シラタといって、白っぽい色の米になってしまうことが多く不人気であった。八州は、農林八号よりも晩稲の品種であったため、霜の害を受けることがあった。味はいま一つであるが、収量は多く、背が低い稲であった。
このほか、利根早生という早稲の品種も多くみられた。背が高くて倒伏しやすく、反当六俵と収量も少ないが、味のよい品種とされた。
山崎のA家では、大正一〇年代には関取、愛国、福島、奥州もち、関取もちが、昭和初期から一〇年頃には八関、不作知ラズ、大和力、銀坊主、糯米として玉もち、小針もち、また陸もちが作られていた。また昭和一九年頃には不作知ラズ、埼玉一〇号もちなどが作られていた。また、戦後の昭和三八年頃の山崎地区の記録では利根早生、越光(コシヒカリ)、四方光、ヤマビコ、晩勝(オクマサリ)、中生新千本、八重穂、金南風、万両、草吹、そして糯米として埼玉一〇号もち、しなのもち、なおざねもちなどが作られ、当時は晩勝(オクマサリ)が最も作付けが多かった。