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大豆

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 大豆には、早生と中生の品種があった。早生豆は九月一日の二百十日前には収穫できる。普通作の中生の豆は九月半ばから遅くとも一〇月一九日のオヒマチ前には収穫した。早生豆としては、白花や満州大豆があった。姫宮のある家では、戦前には白花を作っていたが、戦後になると満州大豆を作るようになった。白花は文字通り白大豆で、収量の少ない品種であった。一方、満州大豆は、大粒の大豆であり、早生であるが白花よりも少し収穫時期が遅れた。普通作の中生の大豆としては、鬼はだかという品種が一般的であった。鬼はだかは青大豆系統の品種である。
 なお、早生を作るのは、大豆の後には、その畑にそばを播く都合があったためである。ただし、早生大豆とそばを播く畑は、せいぜい五畝か一反程度であり、このため、全体から見れば、普通作の大豆と比べてそれほど多くはない。
 大豆の豆を播く時期は、五月下旬である。姫宮のある家では、おおよそ五月二一日の御影供の後に豆を播いたものとされる。また東粂原のある家では、五月二〇日が大豆の播きシンとしている。なお、このころ鳥のカッコウがやって来て嗚く時期である。このため、カッコウのことを豆播き鳥といった。なお、大豆は大麦の間に播くため、麦刈りの際にあまり大豆が大きくなると、麦刈りの邪魔になるといい、このころに播くと麦刈り時期にあまり邪魔にならないという。一方、小麦の間に大豆を播くことはなかった。小麦刈りは麦刈りの後であり、小麦の中に播くのでは、大豆を播く時期が遅くなったためである。このため、小麦の間にはさつまいもを挿した。ただし、さつまいもや小麦に向く畑は、大豆には向かないという側面もある。
 このほか、大豆を田の畔に播くという事例も多い。本田のある家では、田の畔に土を盛り上げ、カマジャクシで穴を開け、種を二粒ずつ播いたという。

2-11 大豆

 大豆を播くためには、鍬や専用の三角歯の鍬で筋をシッピき、元肥として堆肥を入れ、その中に豆を播く。この専用の三角歯の鍬をシッピキ鍬などといった。豆は、一升枡に入れて播くもので、一反あたり五升くらい播いた。播いた後は、足で土掛けする。
 大豆の収穫のことを豆引きという。なお、早生豆の畑では、大豆の間に八月二三日に行われる高野の施餓鬼のころにそばを播いてある状態である。その抜いた大豆は、根を上にして干しておき、乾くと押し切りを使って根だけを切り落とす。根を落とした豆は、下にムシロを敷いてくるり棒で叩く。くるり棒は、二人一組で向かい合い、交互に叩くものであった。だいたい豆が落ちると、ひっくり返してもう一度叩く。叩いた上の方の豆は落ちても、下にあった豆が落ちていないからである。叩いた大豆は篩でふるい、唐箕に掛け、一日くらい干すと豆として使えるようになる。豆を取った豆ガラは、さらにカラブチといってくるり棒で叩く。すると、いくらか豆が落ちるものである。カラブチを終えた豆柄は堆肥として積んでいた。
 大豆は、一畝で一斗、一反で一石くらい収穫できたものである。現在では、連作をすると作物の収穫が良くないが、以前は堆肥を入れていたためか、大豆は連作しても問題はなかった。