昭和三四年に周囲の反対を押し切って、陸田を一反近くぶどう園にして巨峰の栽培を始めた。このときには菖蒲町から三〇センチくらいのものを買い求めて植え付けた。このときは久喜市清久在住の日本巨峰会に所属する野口長左衛門氏の指導を得て始められた。しかし、野口氏にも、巨峰栽培は止めた方がいいと忠告された。しかし、「みんながだめだからやりたいんです」と協力を求めた。すると野口氏は「小林さんはおもしろい人だね」といいながら、協力をしてくれた。野口氏はぶどう研究を六年近く行い、県内で最も早く巨峰に注目した人であったが、経営までは至っていなかった。
小林氏がぶどう栽培でまず取り組んだことは、販路の確保である。組合を結成して販路を確保しようと呼びかけたら、一二人が賛同してくれた。ぶどう栽培を行った土地は、麦が穫れず豆を作るのにいい、粘質の土地であった。