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栽培初期のころ

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 昭和三四年に栽培を始めたが、三年経てば収穫できると予定していたがなかなか収穫できなかった。当初は堆肥をたっぷりやり、樹勢はよいが、実がならなかった。栄養成長と生殖成長は背中合わせであり、その加減が分からなかった。まだ肥料もチッソはだめで、リン酸を入れることを自分で経験を積み重ねることで学んだ。
 こうした努力の結果、昭和三九年ころから収穫できるようになった。そして、東京の北千住市場に出荷するようになったが、市場でも巨峰のことが知られていないので、非常に安かった。当時木箱の値段が四八円、千住市場の売値が七五円~八〇円で半分は箱代となってしまった。これに運賃が加わると手間は少ない。木箱が段ボールになったのは昭和四二年からである。
 一方、出荷のためにぶどう栽培農家で「巨峰会埼玉県東部」を結成した。営代三支部 和戸(一二軒)、西粂原(一四軒)、須賀(一六軒)の四二軒であった。
 市場は神田市場、築地市場、千住市場、新橋市場などに出荷した。神田市場は他の市場の三倍の値が付くので一番品質の良いものを出荷した。小林氏にとってうれしかったことは、昭和四一年の埼玉国体のとき天皇陛下の食事のデザートに小林氏が栽培したぶどうが出たことである。東京オリンピックのころから、近隣でも伊奈町・久喜市・宮代町三支部などの各地でぶどう栽培が始まるようになった。