繭を出荷することを繭出しといい、古くは家に回ってくる繭買いに売られた。繭買いは、上繭のみならず屑繭も買っていったという。
戦前には南埼玉郡養蚕組合が組織され、郡内の繭は白岡町の乾繭所ヘ一斉に出荷されるようになった。出荷日は、蚕業普及員によって決定された。蚕業普及員は、飼育期間中や上蔟後に数回農家を巡回し、その状況を見ながら出荷日を決めたのである。遅れている家には、早める指導を行った。
白岡町の乾繭所には上繭と玉繭を出荷し、屑繭は家に回ってくる屑繭買いに売られた。
乾繭所へ出荷する際には、メリケンブクロ(粉袋)を利用した二、三貫目入りの繭袋に繭を詰め、これをオオザルに入れて荷車やリヤカーで引いていった。乾繭所では、検査員が繭の目方を量ってから一部を取り出して検査を行い、等級をつけた。特等の繭は種繭(たねまゆ)として種屋に売られ、それ以外はその場で乾燥させて製糸会社に売られた。白岡町の乾繭所には、大宮市のK製糸が来ていた。
繭代金は横浜の生糸相場を基準に算出され、出荷当日には手金が支払われて、後日残金が精算された。繭出しの帰りには土産を買ったもので、晩秋蚕の時期は白岡名産の梨を土産にする者が多かったという。
屑繭買いは杉戸町の高野から来ていた。屑繭には、吐糸が不十分な薄皮繭や、死んだ蚕の膿がしみたビショ繭があり、これらは屑繭買いに売られるほか家で糸に引いて自家用の絹布を織るのに用いられた。また、玉繭も、値段が安いことからその多くを自家用にしたという。繭の製糸や絹織りについては、「第六章 身のまわりの生活史」の「第一節 衣生活」を参照されたい。