松沼恒三氏は明治四四年に当地に生まれた。松沼氏は農家の三男であったが、桶屋として独り立ちするために尋常小学校を卒業してすぐに春日部市上町に六代続く桶屋に修業に入った。修業の期間は二〇歳の徴兵検査までの七年間であった。初めて教わったことはマダケで二寸ほどの竹釘を作ることであった。クギケズリ(釘削り)というこの作業は次の弟子が入るまで一年から一年半続いた。また、その間はオイマワシといって親方や五人の兄弟子の使いもした。
図22 桶の部分名称
初めて作った桶はミズビシャク(水柄杓)で、自分の道具はなかったので兄弟子に道具を借りて作った。ミズビシャクを作る過程で、何度も柄を持ち替えて苦労して作るので、手垢で真っ黒になり兄弟子に「こんなもの、売れるか」と壊されてしまった。壊れたものをそのままにしておいては怒られるので、削り直して作ったが、また壊されて作り直した。はじめのころは技術がともなわないのでミズビシャクも一日に一本しか作れなかった。それから肥やしを汲むヒキビシャク、井戸水を汲むイドヅリというように、次第に大きな桶を作るようになった。昭和初期には年の暮れになるとどの家庭も正月の若水汲みのために、ミズビシャクやテオケ(手桶)を新調したため、飛ぶように売れた。春日部の桶屋は幸手や岩槻の荒物屋に卸しており、そこからどんどん注文が入った。そのため桶屋は一一月末から忙しくなり、一人一日二五本のミズビシャク作りを割り当てられ、作り終わらないうちは眠ることができず、他人より板を一枚でも早く多く削るために朝五時には起きた。いつも仕事に取り掛かる前にカンナの歯を立てるが、その音で周囲に早起きがわかってしまうので前の晩に歯を立てておいてから就寝した。修業の間は一か月五〇銭の小遣いがあった。ネン(年季)が明けたとき親方が羽二重の着物を作ってくれた。
こうした修業を終えたあと、兄が戦死したため農家の跡取りとなった。そのため、「半分農家、半分桶屋」で、注文がくれば桶を作っていた。また、タガのカケカエなど壊れた桶の修理も行っていた。修理は依頼してきた農家に出向いていって行った。四〇年ほど前に巨峰栽培をはじめてから桶作りはやめた。