年中行事は、農作業や季節と深くかかわっている。明治五年の「改暦の布告」(太政官布告第三三七号)により、暦が大きく変わった。それまでの太陰暦(旧暦)を廃止し、太陽暦(新暦)になった。このため年中行事の暦日は、旧暦(太陰暦)・新暦(太陽暦)の二つになるが、さらに旧暦を新暦に適応しようとすると日付にずれが生じてしまい、新暦を受容してからも行事を一か月遅れて行ういわゆる「月遅れ」で実施した。このように、年中行事の暦日は、旧暦・新暦・月遅れの三つに分けられることとなったが、季節感は異なったものになった。新暦で行うと行事に必要な行事食や供え物の材料がそろわないこともある。また、現在でも旧暦で行われるのは十五夜など一部のものになった。ひと月遅れで行われる行事は八月に行われる盆を中心とする行事に多い。八月一日の釜の口開け、七日の七夕、一三日の迎え盆、一六日の送り盆などはすべて月遅れで行われる。
正月行事が新暦で行われるようになったのは、戦後の昭和三〇年代ころになってからのことである。学校や会社などが新暦で正月を行うようになり、次第に農村部の正月も新暦で行うようになっていった。しかし麦作や農作業の関係から二月正月の方がゆっくりと休むことができたという。このころは農作業が機械化されておらず、新暦の正月ではまだ農作業や屋敷回りの整理が残っていて、正月の準備ができなかったのである。このように農作業と行事の日取りは強いつながりがある。
東のある家では、正月行事が二月正月から一月正月に変わったのは、昭和三〇年ころからであるという。それまでは、正月の雑煮の餅やオソナエは、一二月一日のカビタリに搗(つ)いたものを保存して用いた。一か月も過ぎているので、餅のカビを取りながら食べたが、新暦になってからは正月に搗くようになりカビない餅を食べることができるようになった。
逆井のある家では、一月正月になったのは昭和三〇年ころからである。このころまでは稲刈りや麦蒔きなどの農作業もゆっくりしていたので、一月にはまだヤマカキ、麦播き、麦踏みなどの作業があり忙しかったので、二月正月の方がゆっくりと休めた。
須賀下のある家では、二月正月から一月正月に変わったのは戦後のことである。暦が新暦に変わった当初は、今までの慣習があり、なかなか慣れなかった。また、かつては大宮氷川神社の十日市(とおかまち)(一二月一〇日)のころ田に二毛作の小麦を作ったり、菜種を作ったりしていたので、暮れから一月は農作業が忙しかった。だから二月正月の方が仕事が終わって一段落できるので、ゆっくりと休めるので正月の気分がしたという。