前日に糯米(もちごめ)を砥ぎ、水に浸しておく。当日は夜明け前から、角蒸籠(せいろ)や丸蒸籠で糯米を蒸し、蒸し上がると臼と杵を用いて餅搗きが始まる。
餅を搗く量は、かつて正月の間中、餅を食べたり、大人数の家族や親戚に配ったりしたころは多かった。多い家では二俵、三俵も搗く家もあった。餅の種類も糯米のノシ餅だけでなく、オソナエ、カキ餅、デングルマ、コザキの餅など多種の餅を搗いた。また、二月正月のときには「寒餅」はかびないと一月に餅を搗いた。オソナエを搗くのは一臼目、三臼目、五臼目などの奇数が多いが、なかには二臼目に搗く家もある。
臼と杵を使って多量の餅を搗いていたころは、夜中の午前二時ころから糯米を蒸かし始め、家族総出で搗き始める家もあった。また、近所や親戚など共同でお互いに手伝いながら搗くことも行われた。
なお、その年に身内に不幸があると、「ボク」と称して餅搗きや松飾りを行わないで、正月を祝わない。なかには、家人が食べるための餅だけを搗く家もある。
3-1 餅搗き(東粂原 M家)
3-2 餅搗き(東粂原 M家)
内野のある家では、餅搗きは一二月二八日に行う。二九日に搗くクンチ餅はよくないという。多いときは、二俵くらい搗いた。そのころは隣近所でモヨッテ(寄り合って)、男たち二~三人が交替で搗いた。朝の明ける前から午後までかかって搗いて、親戚などにも持っていった。餅はアラレやかき餅に切った。また、コザキ米を精白粉にしたシンコ餅も搗いたが、あまりおいしくなかった。戦時中の食糧難の時代には、粟餅(あわもち)や稗餅(ひえもち)なども作った。これらの餅は粟や稗、モロコシに糯米を混ぜて作った。以前は雑煮を正月二〇日の恵比寿講のころまで食べたので、水餅にして保存した。水餅は一臼分搗いた餅を五センチ幅の棒状に切って、水の中に浸けておく。食べるときに出して小さく切る。水を取り替えれば、カビも生じないで長期間保存することができる。
辰新田のある家では、餅を搗く日は暮れの二八日と決まっている。餅搗きには人手がいるので近くの親戚とユイで搗いた。搗く量は多いときには一俵半から二俵くらい搗いた。このころは、朝の二時から夕方まで一日中餅を搗いた。神様に供えるオソナエは五臼目に搗き、床の間・大神宮様・オエビス(オイベツ)様などに供える。餅はオソナエ・ノシ餅・アラレ・かき餅などを四斗樽にいっぱい搗いた。餅には粟やモコロシを入れた粟餅・モロコシ餅も搗いた。また、モロコシを石臼で挽いて、団子状にしてオシルコに浮かべて食べるとおいしかった。餅は陰干しにしてからしまう。餅搗きの夜には神飾りを下げ、松と切り餅を皿にのせて上げる。かつては、元日から二〇日のオソナエクズシまで毎朝雑煮で餅を食べた。
須賀上のある家では、正月の餅は一二月二八日に搗くことが多い。昔は正月の一五日ころまで毎日餅を食べていたので、一俵くらいは搗いた。餅搗きは近所のY家が手伝いに来てくれ、朝の二時くらいから杵と臼で搗き始めた。神様に供えるオソナエは三臼目に搗く。このとき、歳神様のハツミズテヌグイ(初水手拭い)を下ろして使う。餅の種類には粟餅・シンコ餅・コザキ餅(粳(うるち)米を粉にしたもので、軽くていいと年寄りが好んだ)・かき餅・アラレなどがある。昔の人は「ヒトイロの餅」は良くないといって、二種類以上の餅を搗いた。餅の保存は、かびないようにムシロに餅を広げてよく乾燥させる。また、水餅といって水の中に浸して、その水を取り替える方法がある。正月の餅については、「正月の餅と親の別れは一番辛い」という言葉も残っている。
本田のある家では、餅は一二月二九日に搗くクンチ餅、三一日に搗く一夜餅はよくないといって二八日に搗く。かつては五俵くらい搗いた。この時には手伝いを二人頼んで、朝の暗いうちから午後まで搗いた。餅は雑煮で食べるノシ餅とかき餅、アラレがある。かき餅、アラレは田植え時期など農作業が忙しいときにお茶うけとして食べる。