祭りや一定の普段の付き合いを行う範囲であるいわゆるムラでは、ムラの鎮守といわれる神社を持つのが一般的である。ムラの成員は神社の崇敬者であり、氏子と呼ばれる。こうした神社では、子どもが生まれた時や嫁入りなどでムラに仲間入りする場合などに宮参りや初宮参りが行われる。これは、ムラの成員となるための儀礼であり、こうした人たちが後にムラで行われる祭りや行事の中心になっていく。
こうしたムラの単位は、近世の村であることが一般的である。近世の村の範囲が一つのムラであり、そこに一つの鎮守があるというのが基本的な形といえる。蓮谷はこの典型的事例にあたる。やや変則であるが、東粂原と西粂原もこの事例にあたる。『風土記稿』では、一村の久米原村であるが、この段階から鷲宮神社が二社あり、それぞれを村の鎮守としている。その後、明治初期の『武蔵国郡村誌』では東粂原村、西粂原村としており、それぞれ村社として鷲宮神社を記載している。
しかし、宮代町域ではこのような村単位に鎮守をもつという基本的な形の事例は比較的少ない。東粂原でも、さらにムラの内部が「耕地」と呼ばれる小単位に地域区分され、この耕地ごとに鎮守のような神社を持つという特徴がある。このように近世村の内部が区分され、それぞれが鎮守をもち、いわゆるムラとしての機能を果たしている事例が多い。さらにそれらを包括する鎮守が存在するという、二重構造を呈することがうかがえる。宮代町域では、こうした形が多く見られる。
須賀は近世には全体で須賀村であったが、実際は、須賀上、須賀下、島、辰新田、金剛寺の五つのムラに分かれ、それぞれに行事などを行っているが、鎮守は島に鎮座する身代神社である。また、和戸も近世には和戸村で一村であったが、実際には、和戸宿、本郷、沖の山の三つのムラに分かれる。ここの場合も、本郷に鎮座する宇宮神社が、和戸全体の鎮守となっている。ただし、実際にそれぞれのムラでは、身代神社、宇宮神社を鎮守としているが、別に自分のムラの鎮守を持つ。和戸の場合、この傾向は顕著であり、和戸宿は浅間神社、本郷は愛宕神社、沖の山は天神社をそれぞれムラの鎮守としている。
百間地区の場合、鎮守の範囲がやや複雑である。現在の金原を除く『風土記稿』や『郡村誌』でいう百間村、百間中村、百間東村の範囲のムラは、一四のムラに分かれるが、これが東に鎮座する五社神社と姫宮に鎮座する姫宮神社の鎮守に分かれている。東や姫宮以外のムラでは、前述のように鎮守は五社神社、姫宮神社であるが、ムラの鎮守を別に持っている地域もある。逆井の稲荷神社や宿の神明神社、山崎の重殿社がこの例にあたる。
このように、宮代町域では、神社の鎮守が重層的になっている事例が多い。すなわち、普段の生活や、さまざまな行事を行う上での単位であるムラの鎮守がある一方で、歴史的経緯から緩やかな連合体を成す複数のムラで、また別の鎮守を持つという事例が多いのである。